一向宗兩派の寺院五百有餘、藩政の上下を通じて耆宿名僧と稱せられたるもの甚だ多かるべしといへども、古きは多くその傳を逸す。今纔かに文献の傳ふるものを集めて之を左に列擧す。 義教、元祿七年羽咋郡四丁村小原氏の家に生まれ、後越中氷見一向宗西派圓滿寺の住侶となる。義教群典を渉獵して慧解甚だ博し。元文以降日蓮宗の來難に際し、書を著して之を痛破し、又經を學林に講じて大に威望を負ひ、寶暦五年六月法霖歿後の空位を襲ぎて第五代の能化となり、明和五年六月六日寂す。宗主諡して泰通院といふ。 智洞、法名如達、所居を掌持堂といへり。享保十三年羽咋郡菅原の一向宗西派明專寺に生まる。寛保元年京に上り、寛延三年長崎に遊び、寶暦十三年郷に還りて寺務を襲ぎ、後河北郡大熊養法寺を談議所村に移して之に住し、安永八年十月二十八日五十二歳を以て寂す。智洞辯才あり。内外の典籍を渉獵して談義本を出すこと最も多し。勸化文選・勸化論語・淨土安心要言斷疑本・勸導要言・三文録・勸向西方編・打起睡眠録・勸導要語・勸導簿照・祇園餘材・淨土勸化言々海・眞宗勸詞小筌・芙蓉編・説法微塵草・勸法巍々編・説法無盡藏(巍々編と無盡藏の二書を併せて説法百華園ともいふ)等皆是にして、終生海内を周遊し勸化をこれ事とせり。智洞また俳諧を好みて見風に師事し、鏡花坊と號す。