大圓、所居を大會堂と號す。鹿島郡池崎一向宗西派安淨寺第十二世の住職なり。能化功存に師事し、三業派の巨匠となる。大圓博學宏辯にして、自ら學舍を設け、多く近郷の緇徒を集めて教養し、世人の爲に能陽大圓と稱せらる。享和二年十二月二十五日八十五歳を以て寂す。 鎔泯、鹿島郡尾崎一向宗西派明泉寺第十世の住職にして、學徳兼ね備へ、本山より助教に補せらる。天保三年學林に講師たるの命を受け、將に發せんとするに當りて病を發し、七月廿六日六十七歳を以て寂す。 學心、諱は但念。鹿島郡東濱一向宗西派勝圓寺の住侶なり。尺伸堂善意の門に學び、後司徒に任ぜられ、寺内に隨喜社を設けて多く學侶を提撕す。安政六年七月八日七十七歳を以て寂。 宗學、諱は公通、河崎氏、應信院と稱す。越前勝山尊光寺の第二子として生まれ、十七歳にして江沼郡大聖寺町一向宗西派專稱寺に入り、次いで上洛して學林に學び、後助教に補せらる。宗學亦頼山陽の門に詩を學び、含雲又は六松山房詩人と號し、傍ら書畫茶俳に通ぜり。明治八年五月廿六日七十五歳を以て寂す。 百叡、一名は廣智、荻生氏。江沼郡勅使村一向宗西派願成寺の住侶なり。寛政九年六月生まれ、少にして越後正念寺の實行院僧朗に宗乘を受け、又天台を慧澄に、性相を恢鱗に學び、歸郷の後自坊に講筵を張り、學徒を提撕すること四十餘年、遂に勸學職に擢でられ、累進して明治十三年五月權少教正となり、十四年三月十二日八十五歳を以て寂す。