了暀、香流庵と號す。初め河北郡森下一向宗東派光圓寺に養はれしも、奈良に遊びて唯識を受くること多年、寺務を顧みざるを以て追はれ、後金澤六斗林林幽寺の住侶となり、又奈良に至りて倶舍を學び、尋いで高倉學寮に入つて香月院深勵に師事し、文化十三年十一月擬講に補せらる。文政中加賀法論のことの起るや、了暀上洛して講師五乘院寶景に内訴せしことあり。同九年十一月五日七十一歳を以て寂す。 賢幢、號は鶴溪。金澤田町一向宗東派西方寺第十世の住職なり。文政元年以降高倉學寮に寮司となり、天保元年十一月擬講に進み、十二年正月廿六日寂す。享年七十一。 慧白、羽咋郡宿村一向宗東派西照寺の住侶にして心畫院と號す。文政中寮司に任じ、天保九年十月擬講に進み、十四年十月六日示寂す、享年不詳。 法賢、諱は賢護、乘相院と稱す。明和七年越中上新川郡濱黒崎一向宗東派寶藏寺慈賢の二子として生まれ、後に石川郡金石妙覺寺の住職となる。法賢高倉學寮に入りて香月院・香樹院兩講師に師事し、文政中加賀法論の際にはお助け方の一人たり。天保十三年擬講に任じ、嘉永二年十月十三日寂す。享壽八十。同月本山は之に嗣講を授く。 大宣、一名湛映。羽咋郡子浦村一向宗東派專勝寺の住侶なり。享和中寮司に任じ、嘉永二年十二月擬講に進む。蓋しその師嗣講香雲院澄玄の吹擧による。同郡長光寺の頓成等乃ち之に反對し、その秘事を發く。是を以て大宣は翌三年京都に於いて寺社奉行の糺問を受け、八月江戸に護送せられ、四年七月六日本山の掛所に遣はし蟄居せしむべき命を得、同時に擬講を除かる。文久三年五月復役、即日寂す。 賢明、鹿島郡七尾西勝寺の住職なり。天保十一年以降高倉學寮に寮司となりて、講説の事に與り、嘉永二年擬講に進み、慶應元年を以て寂す。