環定、法名は教念、開得院と稱す。金澤木町即願寺第十一世の住職なり。初め圓乘院講師に就いて宗餘乘を學び、亦外典を究め詩歌を能くす。安政三年高倉學寮に寮司となり、文久二年擬講に進み、亦自坊に制心堂學寮を開きて多くの所化を教育す。明治二年七月五日示寂、享年六十三。 得住、江沼郡吸坂に生まれ、後羽咋郡鹿頭一向宗東派常徳寺の住侶となり、藤懸氏を冐し、獅子窟又は無碍崫と號し、賢殊院と稱す。得住、開悟院靈暀の門に入りて宗乘を學び、天保六年寮司となり、十三年擬講に補せられ、安政元年嗣講に進み、文久元年講師に陞り、明治七年三月寂す。 默惠、諱は讓、富樫氏、巖谷と號し、瑞應院と稱す。江沼郡山中一向宗東派燈明寺第十五世の僧。文化三年五月を以て生まれ、天保十年寺務を襲ぎ、十四年寮司となり、安政三年擬講に進み、慶應元年嗣講に補せらる。默惠俊邁にして四方に教化を懈らず。明治十年七月十二日七十二歳を以て寂す。 哲僧、諱は教忍、法名は慶忍、護法院と稱し、閲藏觀主と號す。倉谷氏。河北郡二日市一向宗東派誓入寺第十三世に住す。文政中加賀法論の際父北山と共にお頼み方に屬して本山の取調を受けしが、改悔して宥され、天保十三年寮司となり、明治二年擬講に進む。五年十月再び異解の嫌疑により在職のまゝ聞調べられて改悔證文を上り、六年員外に轉じ、後二等學師に補せらる。哲僧自坊に於いて所化を提撕し、門下多く逸材を出せり。十六年七月二十日寂、享年八十二。 了榮、字は戒忍、諱は現了、開神院と號す。羽咋郡大笹村一向宗東派願行寺芳野了法の第五男なり。幼にして頴悟、初め開得院法賢に唯識諸論を聞き、後に開悟院靈暀に宗學を傳ふ。弘化元年鳳至郡廣岡滿覺寺了長の養ふ所となり、爾後廣陵氏を冐す。安政五年住職を襲ぎ、明治二年擬講に任じ、八年近江愛智川寶滿寺に移り、二十四年嗣講となり、三十一年講師に進み、三十三年五月八日大僧都に任じて示寂す。齡八十四。