隨縁、諱は現瑞、若林氏、阿耨院と稱す。金澤鍛冶町一向宗東派乘善寺の僧。文政八年五月四日を以て生まれ、少より哲僧に師事して宗餘乘を學び、天保九年高倉學寮に入つて寮司に任じ、十二年父了徳の後を襲ぎ、名聲大に著る。明治十七年一布教師が隨縁の言動を訴ふるものあり。因りて廻心状を提出し、香山院の教誡を受く。三十二年僧都に補し、三十五年六月二日七十八歳を以て示寂す。 不著、珠洲郡小木村一向宗東派法融寺に住す。篠塚氏。天保十四年を以て生まる。宗乘の外好みて儒書を讀み、東北を巡化して大に布教の功ありき。明治八年本願寺上局議員を命ぜられ、累進三十七年十月大僧都に任ぜられて示寂す。齡六十二。 心泉、幼名郁護法麿、諱は蒙、心泉又は月莊と號し、俳名を小雨といふ。北方氏。嘉永三年四月金澤木新保一向宗東派常徳寺致風の二子として生まる。元治の頃京都の學寮に入り、又伏見西方寺嗣講に學び、明治元年常福寺の住持となる。九年清國布教を命ぜられて上海に赴き、十六年歸朝、三十年再び清國の教務を視察し、三十四年歸朝す。心泉の彼の地に在るや翰林學士兪曲園及び書畫の大家胡鐵梅等と親交し、最も篆隸を能くせり。三十八年七月廿九日自坊に示寂、行年五十六。 慈影、天香と號し、香温院と稱す。天保八年十一月越後刈羽郡中濱村一向宗東派勝願寺に生まる。幼より伯父香樹院徳龍講師の薫陶を受け、又藍澤南城に儒學を習ひ、安政元年十八歳にして京に出で學寮に入り、五年擬寮司となり、文久三年寮司に進む。次いで明治元年宗主嚴如の命を奉じ、名を中川誠一郎と稱し、長崎に赴きて基督教を研究し、傍らその宣布の歌を視察す。六年擬講に進み、七年江沼郡大聖寺町願成寺の住職を襲ぎ、龍山氏を冐し、二十九年嗣講に進み、三十四年講師を經、大正十年一月四日僧正に補せられて示寂す。年八十五。