然るに金澤に於ける日蓮宗の寺院等、該條目中主として色衣の制に關して不平を唱へ、印形を加へて認諾することを肯んぜず。從つて色衣以外の條目も亦實行せらるゝに至らざりしかば、妙成寺は新たに諸寺の住職となり又は隱居せんとする者に許可を與へず。信者も亦藩の指定したる僧録に反抗する諸寺の體度を慊らずとして、談議の席に列するを憚るに至れり。寺社奉行永原左京・伊藤平右衞門之を憂へ、寶永五年六月十七日諸寺に諭し、一旦條目に印形を加へて宗制の施行を圓滑ならしめ、色衣に就きては別に願書を提出すべく、その決定に至るまで姑く從來の規定に據らしめんとせり。而も諸寺は全然その主張の貫徹せざるを憤り、遂に七月二日を以て、三十二ヶ寺の住職等連袂して藩外に出奔せんと企て、去るに臨み蓮昌寺・妙福寺・本光寺を老臣本多政敏の第に遣はしてその意を致せり。政敏乃ち翌三日脚夫を馳せ、書を一味の諸僧に與へて、既に命を關門の奉行に下して彼等の通過を警めたるを以て、直に金澤に歸るべきことを告げしに、諸僧は止むを得ず之に從へり。爾後紛擾益甚だしく、凝滯解くべからず。因りて七年六月十三日藩の老臣等、その協議の結果を寺社奉行に傳へ、色衣に就きては姑く寶永四年以前の制に據りて説法することを得しむるも、若し他日藩議之を許さずと決定する時は速かに之に服從すべく、その場合に於いて尚違背するものあらば直に追放すべしと命ぜしめき。而も諸寺はかくの如き姑息なる指令に從ふを欲せず、更に徹底せる解決を得るに至るまで、各自の困窮を顧みず、説法停止の現状を持續せしむべしと主張せり。 妙成寺個條書の儀に付、當宗寺庵等異論候儀者、追而御吟味之上向後之格可被仰渡候。此儀に付説法相止困窮之由。然者右落著之内迄、四年以前迄之色衣にて可相勤候。御僉議相極候上色衣御免許は格別、若又自今色衣御停止之時は不可及違背候。尤於不致領承候は、出寺追放可被仰付候。萬一是以當分の儀に而は難得其意候由相斷候ば、假令何樣に困窮候共其分に可成置候。妙成寺へも此由相達候得共、是者別段之儀、御仕置一向きの事に候得者、兎角に被及違背間敷旨被仰出候間、被得其意可被申渡候。以上。 庚寅六月(寶永七年)奧村伊豫印 (外八人略) 永原左京殿 伊藤平右衞門殿 〔政隣記〕