日蓮宗諸寺が藩の調停に服せず、長く喧騷を廢せざるは、素より藩の威信に關すること尠からず。是を以て藩は遂に斷乎たる處置を執るに決し、八月七日公事場奉行は先づ立圓寺の罪状を檢して禁牢に處したりき。これ藩侯の親翰と稱して、妙成寺の日體を誹謗せる僞書を城下に流布したるによる。次いでこの書、元と津田帶刀の臣篠田彌三次の妄作する所にして、岡島内膳の嫡子釆女・定番御歩橋爪次兵衞等が相受けて宣傳したりとの事實發覺したるを以て、釆女をその親族たる岡島市郎兵衞に、次兵衞をその所屬の組小頭に御預となし、彌三次及び慈雲寺の主僧は禁牢を命ぜらる。かくて次兵衞は一旦蟄居せりといへども、翌年恰も將軍綱吉の三回忌に當れるを以て、四月刑一等を減じて遠慮となし、釆女も亦一類預たることを解除し、たゞ妄に世間に排徊することを得ざらしめたり。而して本問題の素因と爲りし色衣に關する善後の處置は、今之を詳かにせずといへども、恐らくは終に舊慣を改むるに至らざりしなるべし。