明和七年十二月二十九日、加賀藩の老臣本多安房守政行・前田駿河守孝昌二人令を發して、日蓮宗の中富士大石寺派の主張を信ずるを禁ず。是より先、藩は領國内大石寺派に屬する末寺なしといへども、濫に之を信ずべからざるを示達せしが、後禁令漸く弛綾し、俗家に於いて勸奬するもの多きを加へたりしかば、終に此の事あるに至りしなり。 加・能二國の日蓮宗に屬する僧徒にして、その名の著れたるもの亦多少を算すべし。今之を掲ぐ。 日治は蓮藏院と號す、その生國を詳かにせず。日治學徳共に高く、頗る前田利家の歸依を受け、天正中金澤に妙布山立像寺を開き、寶林山妙感寺を小松に創め、慶長十年八月を以て化せり。 日淳、父を越前朝倉氏の臣上木新兵衞といひ、その異父妹は即ち前田利常の母壽福院なり。慶長六年壽福院利長に請ひて金澤に經王寺を建て、日淳を迎へて開山たらしめ、十三年には妙成寺十四世に住し、その本堂・番神堂を建て、元和元年退隱し、二年三月寂す。 日鳳、鷲山院と號す。越中富山に生まれ、初め禪を學びしが、次いで妙成寺第十二世日慈に投じ、後松崎談林に入り、慶長五年妙成寺第十三世を襲ぎ、十三年退隱して山内に昌雲坊を創め、元和三年七月二十日寂す。日慈の松崎談林に在るとき、その師の死を感知す。因りて人之を六根清淨大徳と呼べり。 日海、名は算妙、初め京都寂光寺内本因坊に住す。日海學徳兼ね備り、傍ら圍碁に於いて天下に匹儔を見ず。是を以て家康の爲に召されて歳時に江戸に下れり。藩の老臣本多安房守政重亦之に歸依し、元和三年藩主に請ひて之を招き、寺地を與へて一宇を創建せしむ。久遠山本行寺即ち是にして、日海と共に來りし日至その二世に居る。日海は同九年五月江戸に寂せり。