日條、越前の人、上木氏、壽福院の甥なり。正覺院と號し、元和元年妙成寺十五世に住し、五重塔・三光堂・樓門・鐘樓・祖師堂・客殿等を建つ。同國の大乘寺・加賀の眞成寺・常福寺、越中の寶乘寺も皆その創むる所なり。慶安三年九月寂す。 日理、本是院と號す。妙布山立像寺に住し、中村談林・鷹峰談林に學を講ず。後金澤に濟生庵を營み、明暦元年十二月寂す。濟生庵は寛文十一年その寺地を轉ずるに及び、濟生山本是寺と改む。 日豐、鷲峯院と號す。字は唯遠、能登七尾の人なり。幼にして奇相あり、舌を出せば鼻に過ぐ。十一歳加賀の蓮昌寺に入りて祝髮し、京師の龍華院に往きて日饒の室に投ず。十六歳飯高談林に遊び、禪那院日忠の會下に在りて大に啓發せらる。日豐智辯ありて聲洪鐘の如く、佳名池上の日耀と匹儔す。後中村・宮谷に歴講し、寛永十七年日饒に嗣ぎて龍華第十四世の主となり、明暦の初池上第十九世に轉ず。心性院日遠・禪那院日忠等屢々書を日豐に寄せ、その中或は宗門の棟梁といひ、或は四海唱導師と書す。以てその推重せられたるを知るべし。寛文三年六月七十歳を以て寂す。 日傳、妙心院と號す。妙成寺第十五世日條を師とし、寛永十六年日豪の後を受けて第十七世に住し、御靈堂を建立し、庫裏を修繕し、七面堂を私造す。慶安中文句を正東山に講ずること五年、萬治三年身延山第二十八世に住し、寛文七年十月二十二日寂す。能登柳田の淨心寺、越中泊の妙輪寺、金澤の蓮華寺・三寶寺・常榮寺は皆日傳の開創する所なり。 日俊、修禪院と稱す。越中氷見の人。妙成寺日條の門に出で、正東山に學び、萬治三年妙成寺第十八世に住し、長屋・黒門及び經堂を建て、文句を中村談林に講ずること六年に及ぶ。延寶五年事に因り追放せらる。寺傳には山内慶住院に退隱し、天和三年一月二日寂すとせり。