日遼、字は吏道、興源院と稱す。加賀大聖寺の人。日傳の門に入り、中村談林に學びて直に玄義を講じ、次いで文句を西谷及び雞冠井に講じ、延寶三年日俊の後を承けて妙成寺十九世に住し、丈六堂・寶藏・開山堂・閻魔堂・浴室・客寮を私造せるが、元祿二年山内本覺坊に退隱し、同年十一月八日寂す。 日脱は加賀の人なり。俗姓逸見氏、字は空雅、一圓院と稱し、遊明子と號す。本是院日理に投じて出家し、飯高談林に遊びて苦學二十年、業成りて山科談林の講主となり、立本寺に瑞世し、復飯高の請に應じて金鱗を振ひ、延寶八年身延第三十一世となりて在職十九年に及ぶ。元祿中小湊の日映・碑文谷の日附・谷中の日遼等、悲田新義を唱へて怨を身延に構ふ。日脱之を公廳に訴ふ。官則ち悲田停禁の令を發し、遂に小湊・碑文谷・谷中の三寺を以て天台宗に屬せしむ。六年五月東山天皇その功を賞し、賜ふに紫衣を以てせり。之を身延賜紫の始とす。十一年九月七十三歳を以て寂す。 日相尼、金澤の人、俗名は久津見重子。初め日審の京師より北地に飛錫するや、日相その母に請ひて教を受く。時に年僅かに七歳。是より一家擧げて日蓮宗に歸せり。寛永十七年母出でゝ將軍家光に仕へ、同十九年重子十六歳にして前田利常の女の智忠親王に嫁するに隨ふ。既にして母老いたるを以て重子は致仕して之を省し、後身延山日境に依りて得度し、妙是院日相と號す。母の死後將軍家綱その祿の半を日相に與ふ。日相乃ち地を中村に相して竹露庵を建て、又母の爲に妙應寺を營み、次いで竹露庵を谷中日慶尼寺の舊地に移して日慶寺と號す。實永二年十月寂するとき年七十九。日相學を好み、和歌を善くし、殊に楷書に秀づ。嘗て紺紙金泥の法華經を書す、字々三禮して一函成就すといふ。