そのうち、藩政時代に至りて勃興したるものに那谷寺あり。眞言宗に屬し、山號を自生山と號す。源平盛衰記に奈谷寺と書せられ、今ナタデラと稱するも本來はナタニデラなるべく、之を西國三十三番觀音順禮の參詣する那智・谷汲の二頭字を採るといふものは附會に過ぎざるなり。正應書寫の白山記に、那谷寺號岩屋寺といふものは、岩石より成る絶壁中に洞窟を穿ちて觀音堂を設けたるに因る。元來白山寺末院の一たりしものなるが故に天台宗に屬せしなるべしと思はるゝも、近代に在りては轉じて眞言となりしなり。天正中兵燹に係り、伽藍一たび廢頽に歸したりしが、前田利常の小松に隱棲したる後、那谷はその領邑たりしを以て、寛永十七年その地に臨み、詳かに舊時の沿革を聞き、乃ち資を損てゝ再興せしめしに、形勝の奇絶に加ふるに輪奐の壯麗を以てして、忽ちその名を知られしこと、元祿二年明僧高泉の之を訪ひて自生山那谷寺記を作り、又殆ど同時に芭蕉の遊杖を曳きしことの奧細道に見えたるを以て之を知るべし。藩政中寺内に不動院と花王院とあり。正保四年不動院は領七十石を受け、承應四年花王院は三十石を受く。今花王院を廢し、不動院を改めて那谷寺と稱す。 又曹洞宗の寺院には實性院あり。大聖寺侯の菩提寺なるを以て最も名を知らる。初め前田利治の入部せる時、玉井市正貞直之に從ひ、寛永十八年通外祇徹を請じて岡村に置き、父廓庵宗英の牌を立てゝ宗英庵と稱せしが、正保元年祇徹寂し、天柱響補後を襲ぎ、伽藍を建てゝ靈光山宗英寺と改む。次いで萬治三年利治歿してこの寺に納骨し、翌年寺を城南に移して金龍山實性院と號すといふ。 實性院の住僧中最も顯れたる者に無得良悟あり。會津の人。初め黄檗の開山隱元及び二世木庵に就きて修業し、後實性院二世海翁巡浦に從ひ、元祿三年前住明州珠心に次ぎて第四世を領す。五年藩主前田利明の卒せし時良悟その導師となり、七年出院して耳聞山の野水庵に居る。晩年長州大寧寺の法泉庵に住し、寛延二年五月廿三日示寂す。壽九十二。