長谷川等伯は能登七尾の人。諱は信通、通稱久六、雲谷派の畫人にして、長谷川流の祖なり。その家世々染匠を業としたりしが、等伯は幼より畫を好み、京師に上りて狩野風の筆法を學ぶ。然るにこの時狩野永徳・海北友松・狩野山樂等、皆名聲を一世に擅にしたりしかば、等伯は遽かに彼等を超え難きを知り、風格を變じて自ら雪舟五世の畫孫と稱したりき。等伯特に肖像寫生に長じ、一時その右に出づる者なし。故に尺紙寸縑も亦甚だしく珍重せらる。前田利家曾て等伯をして、豐臣秀吉より賜ふ所の關白秀次の故舘たりし伏見邸の裱〓に畫かしむ。後利長之を越中高岡城に移せり。等伯又京都本法寺の涅槃像を畫く。幅三間半・長七間にして、『叡聖山本法寺常什、慶長第四己亥年卯月二十六日吉辰、住持沙門日通、願主自雪舟五代長谷川藤原等伯六十一歳謹畫』と記す。又北野天滿宮の扁額に辨慶の土佐坊を生擒する状を圖し、『武運長久息才延命所、奉掛御神前慶長十三戊申暦六月吉祥日、佐久間伊豫守平朝臣眞勝母敬白、自雪舟五代長谷川法眼等伯七十歳筆』と欵せり。その大さ横二間・竪一間。人皆等伯の老齡にして筆力萎靡せざるを賞すといふ。既にして等伯徳川家康の爲に徴されて江戸に至りしが、慶長十五年二月二十四日未だ謁せずして歿し、嚴淨院等伯日妙居士と諡せらる。