また長谷川等譽あり。等伯との關係を明らかにせず。妙成寺六曲屏風松杉圖に長谷川等譽筆と落款せるものあり。又鹿島郡小島成蓮寺藏に等譽が信春の前掲涅槃像圖を模寫して、『慶長四年七月二日長谷川等譽是寫也』と記するものあり。同小島本延寺の過去帳には等譽の物故を寛永十三年正月二十六日とす。 俵屋宗達、本姓を野々村といひ、諱は以悦、字は伊年、宗達はその號、所居を對青軒といへり。能登の人にして、初め徙りて金澤に居り、後京師に入りて豐宗寺に寓す。宗達の畫系に就きては諸説紛々として、或は狩野永徳に學べりとし、或は狩野安信に就けりとし、或は住吉如慶の門人なりとす。葢し宗達は土佐派に私淑せりといへども、必ずしも師傳あるにあらず、擅に諸家に出入したるものにして、強ひて類似を求むれば本阿彌光悦に近く、而して光悦の宗達に感化を與へたるか、宗達の光悦に影響を及ぼせるかは知るべからず。宗達の歿年も亦詳かならずといへども、畫乘要略に從へば寛永の末年金澤に歿したりとし、本朝畫纂には享年を六十八歳なりとせり。但し寛永の頃京師に在りて畫名を爲したりしことは、烏丸光廣の贊又は奧書を有するものあるによりて確實なりとすべく、谷文晁も嘗て宗達が筆なる源語關屋の巷の圖を觀るに、烏丸光廣の題歌ありて殊に眞跡たりといへり。彼の畫には、多く法橋宗達又は宗達法橋と署し、對青軒の朱文圓印を用ふ。その無落欵なるものに在りても、醍醐三寶院所藏の扇面貼交屏風の如きは、二曲一雙に十一枚の扇面を散らしたるものにして、確かに信を置くに足るべき作品なりとせらる。獨この畫蹟のみならず、同寺には尚舞樂圖の屏風あり、蘆雁圖の衝立ありて、宗達と三寶院との間に何等かの特殊關係ありしを想像すべく、更に宗達が醍醐のむしたけを贈りたる快庵に對する謝状の存するもの、益之を證して餘ありとすべし。快庵は恐らく醍醐の住僧なるべしといへり。