又喜多川宗説あり。喜多川は一に北川に作り、宗説は一に相説に作る。宗説の印には伊年と刻し、古畫備考に初代宗達の嗣なりとせり。然るに扶桑名公畫譜に俵屋宗雪ありて、諱は伊年、宗達の弟にして加州太守に仕へ、世に宗達の畫といへるは多く宗雪の作なりといへり。葢し宗説も宗雪も同一人なるが如く、宗達の弟とするは大に怪しむべしといへども、之をその嗣なりといふは藝術上の傳統を指すものとし、嘗て加賀に來りしことも疑なきが如し。燕臺風雅にも、宗説の説は一に雪に作る。金澤に來寓し、前田利常命じて竹ノ間に畫かしめき。相傳ふ、此の時生竹を伐り取りて之を燭前に立て、夜その竹影に倣ひて寫せりといへり。 その他萬年宗達なるものあり。伊年宗達の族にして、子孫世々加賀侯に仕へ、宗達を通稱とすといはる。又野々村通正ありて、家を俵屋といへり。古畫備考には、通正を加州の畫人なりと記して、『寫山樓、加州藩士より聞之云々。』との註を加へ、尾形流略印譜には、通正七十七歳筆の款識を載せたり。是等畫人のこと皆確實に知るべからず。 藩初以來專ら繪事を以て藩に仕へたるもの、殆どこれあるを見ず。偶事あるときは、即ち江戸の畫工に命じて描かしめたり。元祿十五年將軍綱吉、前田綱紀の本郷邸に臨まんとせし時、藩は豫め御成御殿を造營したりしが、その屏障は探雪・休碩・等麟・素仙・柳雪・養朴・如川・洞元・壽碩・伯圓・即譽・圓俊・休山・洞春・春笑・良信・永叔・春湖・春悦・探信・隨川・梅雪・春山・安仙等に命じて毫を揮はしめき。金澤城に於ける殿閣が何人によりて裝飾せられしかに就いては、未だ記録を得ずといへども、亦同じく此の如くなりしなるべし。但し江戸の畫人中にも加賀藩の祿を食みし者なきにあらず。狩野友益といふ者あり。諱は氏信、通稱久米之助。前田綱紀の時之に仕ふ。友益二子あり。長を景信又は友信といひ、伯圓又は意仙齋と號す。元祿十三年綱紀江戸に邸地を與へ、正徳三年五人扶持を給せしが、享保十一年八月八十五歳を以て歿したりき。友益の第二子を豐信又は種信といひ、即譽と號す。亦我が藩に仕へ、家法を守りて技を能くす。世に加賀の即譽といはれしもの即ち是なり。此の如き類頗る多かるベし。