觀了は能登の僧なり。寶暦三年四月羽咋郡赤住村一向宗東派なる恩敬寺に生まれ、天保九年三月二十九日八十六歳を以て歿す。幼名は左京。長ずるに及び佛典を伊勢の西弘寺惠琳に學び、遂に洛陽の學寮に入り、傍ら池野大雅に就きて畫を習ふ。曾て加賀藩の老臣前田直方の需により、筆蹟を藩侯に献じ、又文政十一年京に上りし時、山水の畫十二葉を本願寺法主に贈りて賜與せらるゝ所多かりき。是より先安永五年師大雅の歿するや、その妻玉蘭觀了に囑し經を誦して冥福を祷らしめ、遺品硯一面・墨一挺・畫蹟三十枚を贈れり。觀了の描く所、その佳品に在りては頗る大雅に髣髴す。是を以て世に觀了の作を以て大雅とせるもの多しといふ。觀了亦師に倣ひて池野氏を冐し、池之蘭山・恩敬主人・面霞亭・弧竹園・東明・逍遙等の別號あり。 同じ頃畫名を京師に顯しゝものに岸駒あり。姓は佐伯、岸氏、駒はその名、一名昌明、幼名乙次郎、字は賁然。華陽・同功館・可觀堂・虎頭館・天開窟・鳩巣棲・專蘭齋等の數號あり。父豐右衞門金澤に在りて裁縫を業とし、母は越中東岩瀬の人なり。駒寛延二年三月十五日を以て生まれ、幼にして敏悟繪事を嗜む。年十二にして出でゞ染家の奴となり、三年にして巧に徽號花樣を描けり。稍長じて鍵助と稱し、畫を賣りて自活し、父の喪を終へて京に上る。時に年二十五なり。既にして名聲漸く高し。嘗て佛光寺の裱〓に描くや、有栖川親王之を觀て激賞し、命じて雅樂助と稱せしむ。後朝廷之を主殿大屬に任じ、文化元年越前介に進めらる。同五年正月金澤城火あり、明年四月に至りて再造の功を竣ふ。藩侯前田齊廣幣を厚くして駒を召す。八月駒、男岱及び門生村上健亮・齋藤霞亭・松本文平・望月左近等を率ゐて下り、殿中の障壁に描く。これ眞に故郷に錦を飾りしものにして、駒の得意想ふべく、その行裝の甚だ盛なりしことは之を前編に記せり。駒金城に在ること五月にして京に歸り、岱等は尚留りて設色し、翌年九月に終る。天保七年十二月駒積勤の功を以て藏人所衆となり、從五位下に叙せられ、越前守に任じ、九年十二月五日歿す、年九十。洛中本禪寺に葬る。駒門下に接する峻嚴、且つ厚謝を得ざれば筆を採らず。是を以て往々世の惡評を受く。然れども骨肉に厚く、その母を省せしとき、兄彌左衞門が父の業を襲ぎて生計頗る困難の状あるを見、白銀二貫目を資して仕を藩士玉井貞運に求めしめき。