支藩大聖寺に於いては、繪畫を以て本業とせしものなく、皆士人の餘技に屬し、且つ僅かに之を藩政の末期に近く見得るのみ。思ふにこの藩は封祿甚だ大ならずして上下美術を鑑賞するの餘裕尠かりしによるものゝ如し。今その一二を録す。 小原文英、名は氏益、通稱は直人、文英はその號にして、別に魯庵又は慈山ともいへり。藩侯に近侍して、祿六十石を受く。文英幼にして狩野畫を獨習し、長じて谷文晁に學び、熱心勉勵して遂に血を吐くに至れり。當時文英の畫く所多く用ひられざりしが、彼は毫も之を憂ふることなく、後世必ず具眼者の喜ぶ所となるべしとて縑素を費せり。安政元年十二月歿す、享年七十六。 兒玉大山、名は左源太、諱は延又は延年、儒士兒玉旗山の兄なり。家世々大聖寺藩に仕へて、祿百五十石を食み、町奉行及び寺社奉行に歴任して大に吏名ありき。大山又狩野畫を能くす。その死は萬延・文久の交に在り。 草鹿蓮浦、名は宣障。醫を業として泰仲と稱し、別に一峰・朝障等の號あり。蓮浦明畫を標的として傅彩に長じ、又書を卷菱湖に學ぶ。慶應元年七月歿す。 岡村鶴汀、名は直方、通稱は泉、鶴汀又は惠遷と號す。大聖寺藩に仕へて近習役を勤め、祿五十石を食む。鶴汀四條畫を好み、又箏の彈奏を能くす。慶應三年十一月歿す。享年七十八。 山口梅園、名は定右衞門・右内、後に嶙と改む。世々大聖寺藩に仕へ、祿七十石を食む。梅園畫を好みて小原文英を師とし、又京師に往きて浦上春琴の門に入り、專ら着色を愛す。その死は明治十二三年の頃に在り。 東方芝山、一號雙岳、字は天澤、名は履、通稱は元吉、後に眞平と改む。大聖寺藩に仕へて祿百二十石を受け、學に深く經濟に通じ、傍ら南宗の畫を能くせり。葢し芝山の青年にして京にあるや、畫工吉田公均の家に寓せり。是を以て自得する所ありしなるべし。明治十二年一月歿す、年六十七。 今本節を終るに臨みて、著名畫伯のこの國に來りしものに關し、聊か記する所あるべし。