先づ藩治以前に當り、雪舟が加賀に來遊したることありとの説は、京都本法寺の日通が、等伯の談を聞きて記したりといふ『畫の説』によりて傳へられ、富樫某が馬をのみ描きて之を能くせるは、雪舟の慫慂によると記されたり。然れども馬を圖したる富樫氏は普通に晴貞なりと傳へらるゝものにして、晴貞の死したるは元龜元年に在りとせられ、而して雪舟の示寂は永正三年にあり。二人の時を同じくせざること知るべし。若し眞に等伯の所説を以て誤謬にあらずとせば、かの馬を描きしものは晴貞よりも尚古き時代の人なりとせざるべからず。敢へて後考に俟つ所以なり。 加賀の富樫繪にすき給。雪舟畫修業の時節、等春をつれて到て在國し、雪舟はやがて上洛、等春は三年逗留也。雪舟の云、富樫殿は馬ばかり可然御書候、別の物御無用也と。依之馬計かき玉ふ也。能登の太守より馬の繪十幅所望、書て被遣也。此筆禮迄に本馬十疋、繪馬の毛を揃へて被引也と。 〔日通上人畫の説〕 藩政の時に及びて探幽狩野守信の北下せしあり。燕臺風雅にいふ。前田利常の時に當り、寛永中守信募に應じて北すること再三、數月本藩に寓居し、旨を奉じて數百幀を圖す。今存する所、天徳院に喜捨したる四聖像の四掛幅あり。越中瑞龍寺にも數十幀を藏し、金澤の士庶有する所も亦尠からず。利常東都の邸に在りて畫を命ずること亦多し。然れども絶えて潤筆の賜なきこと三四歳なり。侍臣公の遺忘を疑ひ、一日閑を得て守信に賜ふべき謝儀の有無如何を以てす。公曰く忘れたりと。命じて白銀五十貫を出し、之を五篋に納めて輜車二輛に盛り、守信の家に贈らしむ。傍觀の都人過聽して白銀を黄金なりとし、一時傳播して公の洪量を稱す。實は公の心策に出でしなりと。