次に久隅守景あり。守景通稱は半兵衞。江戸の處士にして金澤に來り止まること六年。今枝・小幡二氏及び町年寄片岡孫兵衞の家に居る。この事葢し前田綱紀の初世に在るべし。近世畸人傳には、加賀侯曾て守景を召し、金澤に留らしむること三年にして未だ祿を給せず。守景罵りて曰く、畫を賣りて自ら給せば何ぞこの地に在るを要せんと。乃ち旅裝を修めて歸東せんとす。侯聞きて曰く、吾固より守景の憤れるを知る。然れども彼は膽大に氣高く、叩りに他の需に應ずるものにあらず。是を以て故らに彼をして貧ならしめしのみ。今や既に烏兎を經、その畫必ず封内に多かるべしと。依りて厚祿を給して平生の勞に報ゆといへり。この譯實に先に掲ぐる所の守信に對するものと同一轍。彼の誤れるか、此の正しからざるか、二者その一に居らざるべからざるなり。 下りて大雅池野無名・鶴亭僧淨光・寒葉齋建部凌岱等の北遊するに及びて、明清の畫風初めて我が藩に行はる。大雅の來りしは寛延三年と寶暦十年となるが、その第二次は高芙蓉・韓大年と三人相携へて富士山・白山及び立山に登るを目的とする旅次に在りき。この時大年が腰間に帶びたる小遣帳あり。表に三岳紀行と題し、背に韓の一字を書す。その内容日々の費用と途中の記事を列ね、又囑目せし山川の風光艸々筆を走せてその間に點綴す。大雅の後に三岳道者と號したるも亦是による。