加賀藩に於ける陶磁器の沿革は、その關係する所極めて廣汎にして、最も主なる陶窯のみに就いて言ふも、江沼郡の古九谷窯・吉田屋窯・永樂窯、能美郡の若杉窯・小野窯・蓮大寺窯、金澤の春日山窯・大樋窯等を擧ぐることを得べく、是等の中、獨り大樋窯が樂燒の系統に屬する外、他は悉く九谷燒の名を以て汎稱せらるゝ所のものなり。 加賀の江沼・能美二郡と越前大野郡との境界に跨れる大日山の西北麓に、九谷と稱する塞村あり。古九谷燒の發祥せし地は、實にこの邊陬なりとす。その窯跡に關しては、茇憩紀聞に九谷より九谷川を經て市ノ谷に行く道の山下なりとせり。茇憩紀聞は大聖寺の藩士塚谷澤右衞門五明の筆録に係り、後に野尻後藤太榮滋の増補せしものとし、その序は、享和三年東方租山の記する所なるが故に、是より以前に成れるものたるを知るべし。明治中に成れる九谷陶器沿革略等亦之を踏襲す。 後藤才次郎陶場。九谷川向、市ノ谷へ行く道の山下なり。此所才次郎住居跡あり。窯場の跡といふ所に、燒物の欠多あり。予巡見せし時、態と人をして掘らしむるに、小き欠多く出たり。九谷燒の見本にもなるべけれと、此道に功者なる人に承りしに、今九谷燒とするものにこと替りたるもの有といへり。又此所に燒物の臺とて、素燒にて〓如圖もの、尤大小あり。此邊に朱石をはたきたる所あり。今も其朱石あり。此朱石を朱の製法知りたる人に送りしかば、三段に製分見せ候に、一段は通例用ひたる朱墨に劣れり。跡二段は忍朱の如し。又九谷燒の土出たる所あり。土色白く、ほろ〱とした土なり。燒物にする時は悉く水飛したるものゝ由。 〔茇憩紀聞〕 ○ 九谷村には後藤・田村二氏の遺跡各所に存在せり。陶器顏料を採りたる古跡には、呉洲穴又は赤巖と名づくる所あり。又瀧の上に、陶窯の通路に燒附坂と唱ふる所あり。瞼山に坂を造り、陶器藥を塗り之を燒附、以て運搬の便を開きたり。今尚緑苔の下陶片を見ることを得。又九谷川の前岸より一町餘を隔て、同人の製造屋敷と稱する所あり。今は蒼田と變じたれども、赤色の石片散出せり。之を採り視るに赤色を製する爲に用ひたる石片の如し。 〔九谷陶器沿革略〕