九谷村に於いて燒成せられたるものは、通常古九谷の名を以て呼ばるゝものにして、我が國の生産したる磁器中最古のものゝ一に屬す。抑も磁器は支那に初り、稍遲れて我が國肥前の産あり、而して之に次げるものは實に古九谷なり。古九谷が此の如き名譽を有するに拘はらず、その創始の年代と状況とに至りては、一も確實なる記録を存することなく、今日に傳へらるゝ所極めて曖昧模糊にして、前に述べたる茇憩紀聞を除けば、坊間に行はるゝ諸書漸く安政の頃に至りて初めて之を載するを見るに過ぎず。是より前に遡りて萬寶全書その他陶磁の事を記したる書を探るも、決して九谷燒に關する記事を得ること能はざるなり。且つその僅かに載するものといへども、多くは荒唐無稽の説を列ぬるのみにして、事實の正鵠を得たりと思はるゝもの殆どあることなし。かくの如きは全然口碑と製品とによりて創始期の事情を揣摩憶測するに止り、文献の徴證とすべきものなきが爲ならずんばあらず。今先づ是等諸書の記事を摘録すべし。 大機公(前田利明)御代に、後藤才次郎を肥前の唐津え被遣、陶を御ならはせ被成。妻子不持者にて傳受せず。仍て唐津に於て妻子持、傳受の後妻子を捨て逃歸る。其後九谷に於てやく。ヶ樣の儀に於ても思召有之ての事なるべし。 〔秘要雜集〕 ○ 九谷燒は後藤が燒たるに非ず。田村權左衞門燒たりといふ。九谷の宮に花瓶一對あり。田村權左衞門明暦元年六月廿六日と藍にてあり。是は燒物の手始に、此花瓶を燒き、奉納したると云傳。 〔茇憩紀聞〕 ○ 九谷燒、遠州時代。後藤才次郎と云者大聖寺侯の命をうけて、對州へ下り陶器を習ふ。加賀に歸て九谷と云山にて燒。ゆゑに九谷燒といふ。 一、彩色ものは唐人この地へ渡り來りて教ふといふ。これ日本彩色窯の初なり。 〔田内梅軒陶器考附録〕 ○ 明暦元年六月二十六日、加州江沼郡九谷村にて始て燒出す。大聖寺御二代飛騨守(利明)樣之御時、樂燒御好にて御手製あそばされ候。其頃御近臣之内後藤三次郎(マヽ)と申仁、至て功者にて御手傳いたし居られ候所、御前より仰付られ候には、其方高麗へ罷こし傅授を得、三年の内に罷歸り候樣仰付られ、夫より慶安三年かの地へ罷越し候得ども、中々以て傳授をゆるさず候故、色々思案いたし、先其國の住人と心を落つけ聟入いたし候處、程なく一子出世いたし候に付漸傳授いたし候。夫より本國へ逃げ歸り候處、最早年數も六年相立、其上殿樣にも御逝去に相成、既に御臨終の時、三次郎と申者此後罷歸候とも、用事無之者に候得ば左やう相心得候樣、御家老始夫々へ仰付られおかせられ候ゆゑ、右三次郎歸國いたし候處、御暇の身と相成候得ども、かの地にて自分も相好、骨折稽古いたし、私の長逗留にもこれなき事故、御評定の上聊の御扶持下され、山籠り仰付られ候よし。夫より三次郎並田村權右衞門(マヽ)と申者と兩人、九谷にて燒始候處、其頃畫工狩野守景繪修行にあるき候よしにて、九谷へ參り下繪をかき候との事。後藤一代にて休窯に相成候。 〔金森得水本朝陶器攷證〕 以上諸書の記する所を見るに、各出入ありて歸著する所を知らずといへども、大體より言はゞ、茇憩紀聞に、明暦元年田村權左右衞門が九谷村の鎭守に奉納せる花瓶を燒きたるを以て、最も製作の初期に屬すとする説を事實に近しと考ふべく、明暦元年は大聖寺藩祖前田利治の時に在り。秘要雜集も亦茇憩紀聞と同じく大聖寺藩士の著なるが、第二世前田利明の時に起るとするもの稍異なり。若し夫本朝陶器攷證に至りては、明暦にして而も第二世侯の時なりとす。素より大聖寺藩の典故を知らざるものゝ叙述にして、支離滅裂全く收拾すべからざるなり。