然りといへども、明暦元年を以て九谷燒の創業年代なりとする説は、必ずしも正確なるものにはあらず。葢し此の事たる、田村權左右衞門がその年に製作したる花瓶の、偶然後世に遺れるより生じたる説にして、之を初窯なりとするものは、茇憩紀聞の如き舊説あると、その製作の極めて古拙なるとに併せ考へ、その鎭守の神社に奉献せられたるは初窯に燒成せられたるが爲なることを臆斷するに過ぎず。議論の根據に於いて頗る薄弱なるを免れざるなり。この花瓶は、青華を以て『南無八幡大菩薩、明暦元年六月廿六日、田村權左右衞門。』と記され、初め九谷の鎭守九谷社に保存せられしを、近頃村民より大谷光瑞氏に贈れるものなり。 古九谷が明暦元年以前既に製造せられたりと思はるゝは、世往々にして承應二年在銘のものあることなり。石野龍山(初世)は、承應二年在銘のもの二點を見たるが、その文字は染付にして、古九谷たること毫も疑義を挾むべき餘地を存せずといへり。現に大聖寺町清水直治郎氏所藏の五彩大皿も亦承應二年の銘を有す。然るに大河内正敏氏の古九谷論には、承應二年在銘のものが、古九谷なりや否やは之を別問題として、少くも承應二年にあらざることは、その精巧の程度に於いて明暦元年のものよりも却りて大に勝れたるを以て知るべしと斷ぜり。但し承應二年在銘のものを以て明暦元年以後の製作に係るものなりとするも、何故に承應二年と銘するの必要ありしかをも思はざるべからず。一般に後世の作品に前の年號を記する目的は、この年號の作品が特に高價又は珍奇なる場合に限らるゝを以て、或は創始期の作品が後に販賣上好條件を有せし爲此の如きものゝ製作せられしこともあるべく、假令現に見る物を承應二年の製作ならずとするも、嘗て承應二年と記したる眞物ありしか、或は承應二年が特に記念すべき年にあらざりしかを疑はしむ。