然りといへども、承應二年は明暦元年より遡ること僅かに三年なるが故に、古九谷窯の創始を略明暦の頃にありとするに於いては亦甚だ妨げずとすべく、實は前田利治の就封せる後、恐らくは慶安の頃より起れるものなるが如し。飛鳥井清の著したる九谷陶窯沿革誌も、亦こゝに見る所ありたるが如く、慶安年中大聖寺藩主第一代前田利治の時にこの磁器の創成せられたることを言へり。田内梅軒の陶器考に、九谷燒を遠州時代なりとするものも、亦略之に似たり。何となれば遠州は即ち小堀宗甫にして、正保四年を以て卒したるが、慶安は正保に次ぐ年號なるが故に、有名なるこの磁器を有名なるかの茶伯と相連繋せしめたること、亦全く謂なしといふべからざるなり。 先に言へる田村權左右衞門は、大聖寺實性院の過去帳に、『天和三年三月五日忍翁宗利居士、田村權十郎父』とあるものにあらずやと想像せらるゝも、藩外に派遣せられて陶法を學びたりとせらるゝ後藤才次郎の何人なりやに就きては、未だ多く研究せられたることを聞かず。葢し大聖寺藩寛永十九年の分限帳によれば、後藤才次郎は百五拾石を領し、内五拾石は本年加増する所なりとせられ、正保三年の分限帳・承應元年の分限帳亦之に同じ。その後寛文初期に屬すと思はるゝ大聖寺町の古圖を見るに、士人より足輕・町家に至るまで盡くその地割の明瞭なるに拘らず、才次郎の邸地を見ること能はず。而して延寶二年の分限帳亦その名を載せずといへり。今現に實性院に有する一位牌に泰岳院安翁淳清居士・義山院忍翁宗利居士の名を並書し、前者を後藤才次郎なりとし後者を田村權左右衞門なりとするは、前掲の過去帳に基づきて近年假作せしものに外ならず。當年に在りては何の理由ありてこの二人を一位牌に並書せんや。又現今大聖寺町願成寺にある梵鐘の銘は、弘化三年改鑄せし際舊銘をその儘に刻せるものなりとて、『于時寛永十六年己卯暦早冬上旬願主十方檀那、冶工越前國柴原住河合仁左衞門尉藤原朝臣忠明、加賀國住藤原朝臣後藤才次郎雕之者也定次花押』と記し、之に比隣する本善寺の鐘銘には、『寛永十八壬午暮玄英良日、越前國吉田郡芝原村窪金屋與三兵衞有原朝臣正重、施主十方旦那、加賀江沼郡大勝持本善寺常住、願主常俊、加州住藤原朝臣後藤才次郎雕之、定次花押』と記さる。今案ずるに本善寺の鐘銘には寛永十八年を壬午なりとするが如き矛盾あり。願成寺のものも亦寛永十六年六月に分封せられ、早くとも十二月に初めて入部せる大聖寺藩租前田利治に件ひて金澤より移されたりと見るべき後藤才次郎としては、十月に於いてこの鏤刻を試みたりしは聊か早きに失するの感なきにあらず。これらは再鑄の際銘文に多少の變化ありしかとも思はる。又『寛文五乙巳年季春加賀後藤定次作』と鐫したる鐵地丸形鐔の存するものありて、その寫影は川口陟著鐔大觀に載せられ、これ亦同一人と見るべく、之を要するにかの鐘銘に就きては多少の疑問なきにあらずといへども、後藤才次郎が諱を定次といへる鏤工なりしことを信じ得べし。而して之と時を同じくして加賀藩には後藤才次郎吉定といふ者ありて、慶長中前田利常に仕へ、元和五年吹座を命ぜられたるものとし、寛永四年の侍帳には百石後藤才次郎として登録せられ、今白山比咩神社に藏する大太刀の金具に『寛永五戊辰暦十一月吉日加州金澤住藤原朝臣後藤才次郎吉定』と鐫したるものも亦同じく、彼は承應元年を以て歿したりといはる。而して最近發見せられたる金澤の後藤氏系譜に因れば、才次郎定次は才次郎吉定の子にして大聖寺藩に仕へたるものとし、かくて吉定はその繼嗣を失ひたるを以て、一類忠清その宗家より入りて後を承くと記せるによりて出自を明らかにし得べし。されば定次は大聖寺藩分立のことあるに際し、之に赴きて父吉定の加賀藩に於けると同じく鏤工出身を以て銀座のことを管し、隨つて後には九谷金鑛採掘に與り、その地に發見せられたる陶土を利用して藩が製陶の業を起すに及び、傍ら之が監督を職とするに至れるなるべし。彼が九谷金鑛採掘に關係したることは、左記前田利治の消息によりて知るべし。 今度山師一人雇遣候。就夫後藤才次郎かたへ山共見立させ可申由申遣候へ共、其方常々見聞及如申候、彼才次郎事之外こうまん者故、何も山師共もごき申候而、不知事に指出候條、十日許の逗留にて九谷迄倉地加左衞門・同彌八郎・山路長兵衞三人、替々來月中先遣、山共見廻之樣子、又山師次第才次郎に申、入用共申付候樣に尤に候。委は青山新右衞門・鴨野伊兵衞かたより才次郎かたへも可申遣候。又其方へ山本彌右衞門かたより樣子具可申入候。隱密にて三人へ可被申渡候。猪俣仁左衞門方へも申遣候。殊今度遣候山師は一てつ者にて少もかざり無之、才次郎又さし出候ば何角捨置可歸候。其段其方より才次郎かたへも可申遣候。又金山大つるに付申とも、家中むざと沙汰いたさゞるやうに尤に候。其上善惡之さた無之樣に尤に候。さしてさた有之候ても不苦候へども、少やうす有之事に候。多分來月廿日時分、むざときおひ絶可有之候。内々其心得尤に候。又歩者一兩人・弓鐵炮之者二三人ほど、小松邊より金澤邊などより聞に來候者不入樣に、其上山にて猥成義無之樣に堅々申付、隱横目可被申付候。佗言あるまじく候。さし。 三月廿一日飛騨(前田利治) 土田清左衞門どの 〔大聖寺土田氏文書〕 田村權左右衞門奉納花瓶京都市大谷光瑞氏藏 田村權左右衞門奉納花瓶