後藤才次郎が製陶を傳習せん爲、有田に赴きたりとするは、近時に於ける最も普通の説なりといへども、亦頗る疑ふべきものなきにあらず。蓋し天明の秘要雜集に先づ才次郎が唐津に赴きたることを載せ、而して之に次げる安政二年の陶器考附録は彼が對馬に赴けることをいひ、同四年の本朝陶器攷證には高麗に行くとし、明治十年飛鳥井清の九谷陶窯沿革誌には唐津に赴けりとの説を採り、次いで十八年農商務省出版陶工傳統誌には之を有田なりとし、二十八年加藤恒の加賀陶磁考草にもまた有田ならんとせり。是等によりて才次郎が製陶を肥前に傳習せりとする説の普く行はれたるを知るベし。然れども才次郎が肥前に赴けりとするは之を加賀に唱道するのみにして、肥前の陶業史に在りては一も九谷燒が唐津若しくは有田より分派せりとの記述を見る能はず。之に加ふるに古九谷燒の作品に就きて研究する所の諸家は、その磁質・顏料・意匠・圖樣の何れの點より觀察するも、毫も肥前系に類するの點なく、寧ろ支那磁器に酷似し、古赤繪南京に異ならざることを主張し、之が歸結として才次郎の海外渡航を斷じ、彼が國禁を犯して自から景徳鎭に赴き、遂に製陶の秘蘊を極めたるも、深くその事實を隱蔽せるなるべしと推測するものあるに至れり。しかも才次郎は前に言へるが如く金屬の鏤工にして陶工にはあらず。金銀の鑑別に巧妙なるべきも、赤黄紫緑に就きては何等の知識なかりしなるべく、有田に至るも支那に至るも畢竟何等爲す所なかるべきなり。但し、古九谷の如き堅牢なる磁器を燒成するに當りては、良質の耐火粘土を要し、青華を附くるには呉須を要す。是等を九谷に於いて獨創的に發見せりと想像することは甚だ困難にして、必ずや何人よりか傳習せざるべからず。而も才次郎にして有田若しくは支那に赴きて傳習したりとの事實を首肯すべからずとせば、剩す所は有田又は支那の陶工の九谷に來りて傳授せりと考ふるの一途あるのみとし、更に古九谷燒が有田燒に類似せずとせば、遂に後者の場合のみを存し得るに至る。是に於いてか田内梅軒の陶器考に、『彩色ものは唐人この地へ渡り來りて教ふといふ。』との傳聞に頗る權威あるを認め得べく、獨彩色物のみにあらず、製陶法一般に於いても亦その指導にあらざるかを疑はしむ。時正に明末清初に屬し、寛永十五年には陳元贇來り、萬治二年には朱之瑜來れり。無名の工人にして來りしもの、豈絶えて無しとせんや。世の古九谷を研究する者の、更にこの點に關して一考せんことを望む所以なり。