古九谷窯は大聖寺藩の奬勵によりて起り、その保護によりて存續したるものなるが故に、生産の費用徒らに多くして産額之に伴はず、僅かに門閥富豪の需要に應じ得るに止り、一般に日用品として供給し、以て利用厚生の目的に添はしむることは尚不可能なりき。是を以て元祿五年利明の卒するに先だち、藩の財政不振なると共に夙く廢窯に歸したるものゝ如し。加賀陶磁考草にこの事を論じていふ。加賀藩の士前田貞親が元祿八年の筆記に、藩侯前田綱紀が茶伯千宗窒を介して御室燒の香合を製せしめしに、當時初代仁清既に歿し、二代仁清之が製作に當りしを以て、一も意に適するものを得る能はざりしかば、乃ち盡く之を返送し、この年更に肥前伊萬里の工人に命じて作らしめたりといふことありて、當時年々封内に於いて製作したる刀劍・蒔繪等を他に進物としたるに拘らず、獨陶器のみその製作を京都若しくは肥前に命じたりしより考ふれば、我が古九谷窯の既に存在せざりしことを推測すべく、又越中新川郡には所謂越中瀬戸燒といはるゝものありしも、僅かに茶入の一種を製し得たるに止り、技巧も亦到底進献の料となすに足らざりしが故なるものゝ如しと。この推測の當否は姑く措き、今假に古九谷窯の創始を明暦に置き、而して廢絶を元祿初年とする時は、その間繼續せしこと三十餘年に亙りたりとすべく、之に次ぐ元祿乃至文化の約百二十年は、加賀産磁器の衰頽期若しくは潜伏期たりしなり。