古九谷窯の略元祿初年に廢絶したりしことは、前に之を言へるが如し。今之を肥前方面の陶磁史によりて案ずるに、かの地方に在りては元祿の頃より産額漸く増加し、他國に販出すること從つて多く、大名富豪の注文も殺到し、加賀侯の依頼を受くることも年々相繼けりとするものは、正にこの事實を傍證するものたらずんばあらざるなり。然りといへども加賀に於ける此の如き状況は、精良なる製品の供給を他に仰ぎたるの謂にして、自國内の製磁全く廢滅に歸し、遺工一人として存するものなかりしとにはあらず。即ち大聖寺藩が種々の事情によりて古九谷窯の保護を停止するに至りたりとするも、之によりて熟練せる職工の他の工業に轉じ、若しくは歸農したりしとは思はれず。必ずや單獨に又は協同して小規模の陶窯を設け、需要の多量なる日用品の製作によりて糊口の資を得たりと考ふるは、世態の極めて當然なるものにあらずや。況や寶暦の頃の鍋屋丈右衞門、寛政の頃の鍋屋丈助等、この萎靡時代に於ける工人の名の往々世に傳へらるゝものあるに於いてをや。然れば即ち同期幾多無名の工人の業績にして、誤りて元祿以前の製作と見らるゝもの、決してこれなきを保すベからざるなり。或は曰く、今日の所謂古九谷燒なるもの、その十中の三は明朝將來のものとし、その三は若杉窯等の作品とし、他の三は明治年間石田平造・松本佐平・竹内吟秋・友田安清等諸良工の仿製とし、殘餘の極めて少數は即ち眞に古九谷燒なるべしと。この説亦傾聽すべし。