古九谷の開窯前に於いて、夙く江沼郡吸坂村に吸坂燒といふものありたりとの説を爲すものあり。京都眞清水藏六の著したる陶寄に、この窯を以て慶長末年に起り、萬治中に至りて廢せりとするものゝ如きは即ち是なり。又一説に、茶道の名器に加賀光悦と名づくる茶碗あり。陶器考附録にも、光悦曾て型を鷹峰窯・ノンコウ窯・瀬戸窯・加賀窯・萩窯の五所に送りて製陶せしめたることありといへば、加賀光悦は即ち加賀窯に於いて燒成せられたるものにして、光悦は寛永十四年八十一歳を以て歿したるが故に、加賀光悦の製作も亦寛永以前に在りとすべく、是に因りて古九谷窯以前、加賀に陶窯ありたるを證すべし。これ所謂吸坂燒なるものにあらざるかといへり。然るに之に反するものは、吸坂燒を以て、吸坂の土を用ひ、古九谷窯に於いて燒成せる一種の陶器なりとし、古説に、後藤才次郎嘗て九谷村に赴かんとして吸坂を經たるが、路傍に良質の陶土あるを發見し、之を九谷に送りて製陶せしに、果して好成績を擧ぐることを得たりといへるもの、即ち是ならんとせり。 吾人を以て之を見れば、吸坂燒は自ら吸坂燒にして、その製作は古九谷窯と何等の交渉を有することなく、その製作年代は古九谷窯の最後期に屬すべしと考へらる。何となれば、之を實質の上より研究するに、吸坂燒は古伊部燒の如き素地を有し、強烈なる火度を以て燒成せられたるものにして、表面に輕く澁釉を刷きたる雅品を多しとし、古九谷燒と全く選を異にするを見るべく、又之を文献の上より求むるに、秘要雜集には、貞享二年三月久保次郎兵衞の開窯なりとするが故に、決して陶寄にいふが如き古きものにあらざればなり。久保次郎兵衞は秘要雜集に菩薩池の人とし、茇憩紀聞には菩提池に作る。葢し恐らくは山城の御菩薩池の誤にあらざるかといはる。 貞享二年三月菩薩池久保次郎兵衞、吸坂山之土にて燒物仕初。やき物場上河崎領にてわたる。 〔秘要雜集〕 ○ 元祿十三庚辰年 二月八日吸坂燒物師次郎兵衞又當年より燒申度旨。依之黒瀬村之内近邊に而松木二棚買請申樣願上、願之通被仰付、其通松奉行へも申渡す。 〔大聖寺藩御算用場年代記〕 ○ 吸坂。當村源太郎といふ者、後藤才衣郎が燒たる佛一体持傳ふ。又吉兵衞といふ者、吸坂燒の小皿拾人前所持す。吸坂燒は、菩提池久保次郎兵衞といふ者燒たる由、御算用場日記に有之由、田中氏咄にて承る。 〔茇憩紀聞〕