古九谷窯の廢滅以後、藩内に於いて陶磁の精良なるものを得る能はざりしを以て、多く供給を肥前に仰ぎ、後更に尾張よりも輸入せらるゝこと多年に及びたりしが、爲に金銀貨幣の藩外に流出せしめしこと鮮からず。是を以て陶業を復興して自給自足の策を講じ、一面下層勞働者をして賃銀を得しむるは、最も機宜に適するの措置たりしなり。時に金澤に龜田純藏といふものあり、屋號を宮竹屋といひ、元祿中知名の俳人小春の裔なり。家世々藥舖を營み、素封を以て聞え、町年寄に任ぜられ、銀座御用を兼ぬ。純藏は號を鶴山といひ、岸派の畫を學び、後清人に法りて墨梅を能くし、詩賦は頼山陽の斧正を得たり。純藏文化二年を以て京都に遊び、陶工青木木米を訪ひて遂に金蘭の交あり。葢し純藏素と木米の製する所を見、その高尚幽雅にして匹儔稀なるに心醉したるに因る。一日純藏木米に議るに、その金澤に下りて陶窯を開かんことを以てす。木米曰く、製陶の事は原土良好にして且つ豐富ならざれば不可なり。予曩に紀州侯の聘に應じて和歌山に赴きしも、原土を得る能はざりしを以て遂に辭して歸洛せしことあり。今貴國にしてこの憂なしとせば、敢へて命を奉じて犬馬の勞を辭せざるべし。願はくは一たび實地に就きて踏査するを得んと。乃ち文化三年を以て笻を北陸に曳き、九谷の陶土の外別に製陶に適するものを得たり。是に於いて町會所は開窯の議を決し、これが費用は藩の補助を得、宮竹屋喜左衞門(商齋)・松田平四郎(馬宋)二人を學げて肝煎たらしめ、翌四年木米を招致して陶窯を春日山に開かしめき。思ふに文化四年は前田齊廣の治世に屬すといへども、先侯治脩尚隱棲して金谷殿に在り。治脩は嘗て學校を起し、又産業を獎めし人なり。藩臣横山政和曾て治脩が手燒の小礫五枚を藏せしことあり。樂燒に白紬を施し、青華を以て香魚を描きしものにして、春日山窯開設以前、侯が大樋燒に倣ひその製造を試みたるものなりと言はる。治脩の意製陶の國産に益あるを知り、之が勸獎の企圖ありたるを見るべく、この時町會所が陶窯を起したるもの、實に偶然ならずといふべきなり。次に載せたる箕柳碑の文中、木米が搏埴の叙次を圖して上つりしといふ金谷公も、亦治脩なること勿論なり。