春日山窯の開かれしは文化四年十一月にして、箕柳碑の文によればその製する所萬七八千に及べりといへば、頗る盛況なりしが如しといへども、木米自身の陶説に『乾窯乾薪無患。濕窯濕薪有患。』といふが如く、この新營の工場に在りては、彼の妙腕を以てするも尚精良のものを得ること能はざりき。さればこそ町年寄の具申書にも、『新竈に而土氣濕り等全く拔け不申候ながら南京燒に似寄候品も出來』とはいへるなり。かくの如く木米が、仲冬雨雪交々至る候に於いて、尚且つ開窯を急がざるべからざりし理由は、この際藩侯前田齊廣が關白鷹司政凞の女と、十二月婚儀を江戸に擧げんとしたるを以て、金澤に在りても之が祝賀の爲、陶磁を要すること極めて多かりしが爲なりといふ。 春目山燒の作品には大作尠く、日常必需品を主とし、就中社會の趨勢と工人の嗜好とに伴ひて、煎茶器を最も多しとなす。而してその磁質堅固なりといへども、純白なるものは之を製すること能はざりしが如く、多少鼠色又は赤味を帶び、圖案は忠實に支那明代の製に倣ひ、赤呉須寫等多し。葢し明磁の模造は時代の風潮にして、木米はその模寫に最も巧妙なる手腕を有すると同時に、亦獨特の筆致を現し、木米の門人徳右衞門等の作品亦木米の遺蹤を保守したるによる。その他、赤地に金彩を施したる金襴手の作品あり。無釉にして雅味あるものも亦これなきにあらず。 春日山燒の白磁青華は、青華の色彩が純粹ならざる藍なると、白磁の鼠色を帶びたるとにより、穩和にして沈着なる調和を示す。この青華が、古九谷燒の青華よりも更に多くの鼠色を含めるは、磁質の鼠色なるが爲に、青華固有の色彩を發揮することを得ざるによるものゝ如し。而してその青華物が皆多少の小龜裂を有するは、木米が強烈の火力を好みしが故に外ならざるなり。 春日山燒の青磁は、世に木米青磁と稱せらるゝものにして、澁き暗茶褐色を有し、殆ど緑色を感ずること能はず。これ木米自身に在りては、支那風の青磁を作らんと欲したるが、全く不成功に終りてかくの如く變化し、而も却りて柔かく古雅なる外觀を呈するに至りしなるべし。然りといへども元來青磁釉を用ひて青磁を作らんことを目的としたるものなるにより、その色彩の如何に拘らず尚青磁とは稱するなり。 春日山燒には、交趾釉も亦多く使用せらるといへども、古九谷燒のものと異なり。その緑色釉には二種ありて、一は普通のものとし、他の一は稍淡く華麗にして穩和なる色調を有し、何れも古九谷燒の緑色釉に比して青味を少しとす。緑色以外の色釉亦古九谷燒より劣りたるは、窯の不完全なりしと磁質の色との關係によるものゝ如し。 春日山燒の赤色顏料は、木米のものとその門下のものと各同じからず。木米の赤色は、光澤ありて嵩を有せず、且つ古九谷燒の如く黒色を含まざるが故に稍美麗にして、加賀諸窯の中にありても優秀なる地位を占むべきものとす。而しで門下陶工の用ひたる赤色の著しく劣れるは、思ふに木米が獨自の秘密として之を傳授せざりしによるものゝ如し。木米の白釉にありては、新窯未だ熟せざりしによるか全く光澤を缺き、彼が春日山にありて製せしものゝ著しく京都産のものと異なること、實にこの點にありといへり。