春日山開窯の後僅かに二ヶ月にして、文化五年正月十五日金澤城炎上の變あり。これが爲に藩侯前田齊廣は三年間の參觀を猶豫せられ、五ヶ年間幕府に對する進献免除の恩典に浴する程なりしかば、内政亦隨つて緊縮を宗とし、國産として奬勵すべかりし春日山製陶所の經費補給も、勢ひ之を廢止せざるべからざるに至りしかば、木米の製作慾も實に索莫たるものありしなるべく、殊に京師に在りては彼の叔父が發狂するの不幸さへありしを以て、遂にこの年冬に至り歸洛の途に就けり。 木米の金澤を去りたる後に於いても、春日山窯は尚衰勢ながら存續し、先に木米に從ひて技を習ひたる本多貞吉・越中屋兵吉・任田屋徳右衞門等その業に勉めたりき。然りといへども此の年兵吉は十九歳、徳右衞門は十六歳にして、尚一個の熟練職工たらざりしが故に、工場の經營は正に知命の齡に達したる貞吉の指揮監督に屬したりしなるべく、而もその後三年にして貞吉は能美郡の若杉窯に從事したるを以て、春日山窯はその中心たるべき人物を失ひ、纔かに窯元名義たる松田平四郎によりて之を維持することを得たり。但し平四郎は素より純然たる商人にして、餘技として少しく製陶を弄したるに過ぎざるが故に、その兼營する工場の萎靡振はざりしは當然なりといふべし。かくて、春日山燒の作品に『文化十酉孟冬帝慶山製』と記したるものあり、又松田平四郎の陶器總録と題する手記に、『文化十年酉六月窯甚宜布出來の加減也。』といひ、或は『文化十一年戌の年より改む。』の記事あるによりて、その頃尚製陶の行はれたることを知り得といへども、文政四年加賀藩の觸書に『春日山於陶器所、當分人形芝居申付候間、川上新町芝居座掛り肝煎共右場所も相兼、右地面裁許肝煎昌次郎申談主付可相勤候。』とあるは、製陶工場を芝居小屋に代用せるものなるが故に、春日山窯は文化十一年より後、文政四年より前に廢滅に歸したるものたることを斷じ得べし。