飜つて考ふるに、木米の金澤に在りしこと僅かに一年有餘に過ぎず。その作品は貴紳富豪の需用に應じ、文人騷客の好尚を充たしたるに留り、一個の陶仙が雅懷を拮土塗釉に托したるに過ぎざるの觀ありて、加賀藩の國策たる興業授産の目的を達せしこと甚だ尠かりしが如し。然れども春日山窯なるものは、實に百餘年間萎靡不振なりし加賀陶業復興の端を啓きたるものにして、能美・江沼二郡の各窯之より起り、後世九谷燒と汎稱せらるゝ特産物を生ずるに至りたることを思へば、木米が加賀藩の爲に寄與せし功績の極めて著大なるを認むべきなり。若し夫直接聞接に木米の業を助けたる人々に至りては、即ち左記の數人あるを見る。 松田馬宋、諱は元寧、通稱平八、後平四郎と改む。製陶には帝慶齋といひ、挿花には弄愛齋といふといへども、多く馬宋の雅號を以て稱せらる。家世々製筆を以て業とし、龜田商齋と共に春日山燒の窯元と爲り、その創設より廢止に及べり。彼が餘技として製陶を習ひたることは、同家の由緒に『文化三年丙寅十月京都青木佐兵衞に入門』と記され、又彼が製陶法を手記したる陶器總録に『文化五年戊辰中夏改控、金陵陶工松田元寧懷書』とあるによりて知らる、陶器總録は鳥ノ子紙横綴墨附二十三葉の册子にして、その内容は土之部・釉之部・金竈古赤繪九谷之方・金竈イマリ寫赤繪之方・火に入る心得之事・石窯釉の方・樂の方・樂窯寸法等あり。この書原呉山之を謄寫し、その門人高野如月庵の復寫を經、製陶上の一資料として尊重せらる。馬宋の遺製には、今同家に樂燒の白黄色紬に赤色の海老を描きたる茶碗、及び椿を描きたる向附と、丸の内に宋字の陶印とを存す。馬宋天保五年三月一日歿す。