任田屋徳右衙門は陶工兼畫工にして、粉雲堂梅閑と號す。寛政四年金澤に生まれ、初め畫を春日神社の神職高井二百に學び、文化四年木米に春日山窯に從ひて陶事を習へり。その後徳右衞門、木米に從ひて山代に至り、復金澤に歸り、春日山窯に師の赤繪細書の陶畫を祖述し、且つ初めて金澤に於いて金彩を用ひたりき。明治六年八十二歳を以て歿す。徳右衞門の長子徳次、後に民山窯の畫工たり。 越中屋兵吉は香山と號す。寛政二年越中射水郡佐賀村に生まる。文化四年春日山窯に入り、木米に就きて學び、木米・貞吉の去れる後は、徳右衞門と共に製陶に從事したりしが、その廢窯するに及び獨立して樂燒の製造に從事せり。世に大樋燒の異趣あるものにして、卯辰樂燒と稱せらるゝあり。これ或は兵吉の遺製なるべしといはる。安政三年六十七歳を以て歿す。 朝山は何人なるかを知らず。朝山の落欵ある、唐津風の青磁手附菓子鉢等に抹茶家の賞贊を博するものあり。加賀陶磁考草にも、青磁の盃臺の表に『文化十酉孟冬帝慶山製草袋庵藏』と記し、裏に『朝山彫之』としたるものありといへり。