民山窯を主宰したる武田秀平は、諱を信興といひ、秀平はその通稱なり。號は友月、別に民山ともいふ。播州姫路の士花井四郎兵衞の子なり。秀平少壯諸國に流浪し、後京師に住せり。偶加賀藩の老臣前田直方その多能なるを知り、文化十一年金澤に招きて祿仕せしむ。時に秀平年四十三なり。居ること四年、文政元年七月直方之を藩侯前田齊廣に薦め、御細工者小頭に任じ、十五人扶持を受けしが、二年新知百石を賜ひ、金山方主付を命ぜられ、五年近習に轉じ、金山方主付及び御細工者主付故の如く、七年齊廣の薨後に至りて專ら金山方となれり。秀平餘技として木彫に妙を得、曾て京師に在りし頃より、細工師として名ありし雲州の如泥と並び稱せられしが、金澤に來りし後益妙技を發揮して人目を驚かしゝこと尠からず。且つ木彫・髹漆・描金・鏤金等往くとして可ならざるはなく、盆石にも亦獨特の流派を起して集雲堂と號したりき。秀平の木彫に於ける大作には、前田侯爵家に梅の重卓子あり、石川縣商品陳列所に菊の卓子あり。その他髹漆等の器什金澤の富豪藏する所多し。當時各種職方の棟梁等、秀平の門に出入するを榮とし、彼が里見町の居邸は實に工藝の中樞たる如き觀あり。彫工石塚清助・髹工横井屋武兵衞・木地師小松屋直次郎・蒔繪師中屋某等、皆その徒なり。而して秀平が民山窯の錦窯を築きたるも亦この邸内に在りき。秀平此の地に來りしより三十一年、特に藩の優遇に浴し、弘化元年九月十一日七十三歳を以て歿す。養子秀造業を承け、手捏の樂燒を製作したりしが、後眼疾に罹りて之を廢せり。 民山窯に屬したる諸工は、山上屋松次郎・任田屋徳右衞門・同徳次等、木米の系統に屬するもの多し。その中陶工たりし松次郎は、能美郡の陶磁界に貢献せしこと多かるべきも、今履歴を得ること能はず。而して徳右衞門に就きては、先に之を述べたり。