民山窯の盛時に際し、小松より招致せられたる鍋屋吉兵衞は、父祖以來陶業に從事したるものなり。初代丈右衞門は寶暦の頃の人にして、初め江沼郡の村吏たりしが、後製陶を事とし、大聖寺町に住せり。葢し古九谷系の餘蘗なるべし。その子丈助は寛政の頃より起り、業を父に受けて松下堂黄影と號し、能美郡に若杉窯の起りしとき往きて之に着畫し、後小松に移りて多く徒弟に教へ、又江沼郡に往復して就業せり。その作風赤繪は萬暦、青畫は交趾に擬す。丈助の子は即ち吉兵衞なり。又父に從ひて陶畫を學び、松下堂文篁と號す。初め武田秀平に聘せられ、小松・金澤の間を往復して民山窯の指導に從ひたるも、天保十一年に至り全く金澤に移り、民山窯の棟梁たる傍ら門生を教授し、又彫刻・描金等の技を秀平に學び、遂に片時も缺くべからざるその輔佐となれり。後嘉永中、金澤小立野なる辰巳屋某が犀川の上流石川郡熊走村に開窯せし時、吉兵衞また行きてその陶畫を助く。吉兵衞の初め小松に在るや、父と同じく萬暦・交趾の風姿を模したりしが、民山窯に從ひし後は、好んで細描の赤繪を着けたりといふ。吉兵街の子内海吉造、明治窯業界の重鎭となる。 任田屋徳次は徳右衞門の子なり。少時より父に從ひて技を習ひ、彩雲堂旭山と號し、天保の頃に於ける金澤陶畫工の錚佼としてその製今尚玩賞せらる。慶應三年加賀藩が城東卯辰山を開拓するや、山上に陶窯を置き徳次をして督せしめしが、後廢藩に及びて徳次之を自營し、向山燒と稱して作品を發賣せり。その鬼ノ手風の石物等見るべきものありといふ。 民山窯に關係する所なかりしも、金澤に於ける同年代の工人に山田屋久録といふ者あり。その著畫極めて精緻にして、頗る鍋屋吉兵衞に髣髴たり。葢し吉兵衞の門下より出でたるものにして、兩者の製作殆ど軒輊あることなく、鑑識家も尚之を誤認することあり。これ外面を金彩赤繪とし、内面に緑釉の山水を描く鍋屋系の特色を備へたるによる。曾て東京帝室博物館に一個の鉢ありて、外面に紫陽花の模樣を畫き、内面に茶褐色の精緻なる山水を描けり。鑑定者皆之を吉兵衞の作なりしとせしが、その箱書には久録製とありしといへり。又赤地金彩の小鉢の内面中央に緑釉を以て山水を描き、底に九谷久録と銘したるものなどあり。明治初年に至り久録年既に老い、右手萎えて自由ならざりしも尚彩毫を放たず。時代の流行に從ひて赤繪の山水人物を細描し、風韻ある作品を出したりといふ。