是より先天保元年嚢に勇次郎に學びたる齋田屋伊三郎は、全國陶業地を視察して歸郷し、亦安右衞門の聘する所となる。伊三郎こゝにあること久しからず、六年に至りて去れりといへども、八年には陶工八兵衞によりて新たに花坂村字新山に磁石の發見せらるゝあり、又同村八枚田に陶土を得るありて、若杉窯の前途益々洋々たりしが、不幸にしてこの年火災に罹り、爲に窯を八幡村字土山に移築せり。八幡窯の規模は頗る廣大にして、地域四千坪に餘り、工場の設備亦之に適ひ、藩末の頃若杉昌右衞門之を管理せしが、後漸く衰運に歸し、明治八年廢窯となれり。而して若杉窯の遺址には、陶工彌右衞門別に新窯を構へ、遙かに明治期に繼續す。是より先、天保六年若杉窯を去りたる齋田屋伊三郎は、自ら居村佐野に新窯を開き、徒弟を集めて製陶を教授し、次いで佐野村及び鍋谷村なる黏土を試驗して製陶に適するを知り、佐野村の中川源左衞門等數人を奬勵し、素地製造の業を起さしめしに、業務大に隆昌に向ひ、子孫相承けて今に及ベり。