前記若杉窯の開創に關しては、能美郡陶窯沿革に、安永八年林八兵衞が貞吉を雇傭したるより起り、平助も亦來りて業を助けたりと記せり。然りといへども貞吉の物故したる年齡より推すときは、安永八年は彼の十四歳に當るが故に、その誤傳たるべきこと明らかなりとすべく、貞吉は初め木米に隨ひて春日山窯に在りたるものなるを以て、彼の若杉に移りたるは文化五年以後ならざるべからざるなり。されば前に言へる如く、之を文化八年の頃にありとする説を探らば、貞吉が四十六歳なる點に於いても亦略信を措くに足るべきなり。 若杉窯が春日山窯と同じく、加賀藩より經費の補助を與へられたることも、亦特に之を注意せざるべからず。葢し當時の藩制に産物方と稱する役所ありて、藩内の物産を奬勵することを掌りしが、文化十年年寄村井長世その主任となり、十一年に罷め、文政元年再び就職し、四年その免ぜらるゝに及びて算用場奉行の兼務に歸せり。若杉窯は實にこの産物方の保護を得たるものにして、文政二年の達書にこの事に關するものあり。 加州能美郡於若杉村燒立候石燒陶器、相應に出來致候に付、來春より他國入石燒陶器都而差留、若杉燒を以御國用相辨候趣、詮議之上産物方年寄中へ相達、被承屆候之條被得其意、早速夫々可被申渡候。依而以後心得違之者有之、他國燒舟積等を以取扱候之儀相顯候者、其品取揚咎め可申付候。此段兼而可被申渡候。以上。 十二月廿八日(文政二年)産物方役所 〔加賀陶磁考草〕 これ若杉窯が林八兵衞の經營中に屬し、産物方は村井長世が主任たりし際のことにして、當時恰も尾張・肥前等より磁器の輸入夥しく、藩内金銀貨幣の流出するもの年々鉅額に上りしが故に、自給自足によりて財政の危難を免れんとする必要上この法令を發するに至りしなり。次いで算用場奉行が産物方を兼攝したる期問に在りては、文政四年又左の達書あるを見る。 各支配所之内陶器出來之ヶ所、且以前有之當時退轉之ヶ所も可有之候間、右之委細可被書出候。以上。 十月廿日(文政四年)御算用場 〔加賀陶磁考草〕 こは現に開窯せるもの、若しくは既に絶滅に歸したる廢窯を調査し、益保護の途を講じ、國産の數量を増加せしめんとの意に出でしものなるべし。次いで文政十一年に亦左記の達書あり。 他國出來陶器入津之儀指留置候得共、今年一作口錢三倍増取立入津差解候條、此段夫々被渡、且著岸之浦々にて右口錢取立、當十月中産物方役所へ指出候樣浦改人等に可被申渡候。船積に而無之取寄候分は、浦方口錢三倍増に相當り候役銀取立、是又十月中可被指出候。船積有無之儀、取扱候ヶ所に而入念しらべ方可有之候。以上。 三月廿四日(文政十一年)御算用場 〔加賀陶磁考草〕 此の後文政十二年に於いても亦同樣の達書あり。是によりて當時の事情を想像するに、産物方は若杉窯に資銀を貸附して奬勵する所ありたりといへども、その産額尚寡少にして藩内の需要を充たすに足らざりしを以て、已むを得ず輸入の禁を弛め、遂には之を撤回するに至りしものゝ如し。元來産物方なるものは、藩の年寄が主附たりし時と、將た算用場奉行の兼務たりし時とに論なく、輸入物貨には口錢と稱する關税を徴收し、又は全くその輸入を禁止し、之に反して領内の生産には資本を貸與して之が發達を助長するの政策を執りしものにして、假令結果に於いて充分當初の目的を貫徹する能はざりしにもせよ、陶業奬勵の如きは最も機宜に適したる措置なりしなり。