小野窯と時を同じくして、能美郡蓮代寺村に一陶窯の起るものあり。この窯は、天保中粟生屋源右衞門の經營に依り、交趾風の堅硬なる白磁及び土交りにして暗灰色を帶ぶる石燒を製し、色彩は交趾釉を用ひ、赤色顏料は殆ど之を用ふることなし。色釉の種類は江沼郡吉田屋窯のものに同じといへども、彼の如く中性化せられざるを異なりとす。葢しこの窯は、古九谷燒の作品中交趾風のものを模倣したるも、遂にその域に達する能はざりしものなるべし。著畫の描法は、黒色線描の上に交趾釉を施したるものにして、主として緑色調を帶ぶるが故に、世人稱して青九谷といへりといへども、亦黄色調に富むものなきにあらず。源右衞門は嘗て吉田屋窯に從事せし人なるが故に、その緑色系の製作を出しゝこと當然なりといふべし。かくて蓮代寺窯には、一時徒弟を養ふこと多く、將に大に隆盛に向かはんとせしに、文久の初に於いて陶磁を濫造するものを生じたるを以て、之が爲に販途を侵害せらるゝこと多かりしと、緑色系の著畫は時人の嗜好に投ぜずして、赤色系のものと頡頏すること能はざりしとにより、事業遂に萎靡して廢窯するの已むべからざるに至れり。然りといへども蓮代寺窯が、能美郡に於ける青九谷の先鞭を着けたる功は決して之を沒却すべからず。況や源右衞門は古陶磁に憧憬し、特に樂燒に造詣したる大家なりしを以て、その製作する所自ら雅趣を備へ、具眼者の愛玩する所となれり。 粟生屋一家の製作にかゝる樂燒は、寛政十年粟生屋源兵衞が小松に於いて開窯したるに初り、子源右衞門に至りて最も進歩せり。源右衞門の造る所は、重箱・硯箱・爐縁・菓子器・箪笥等恰も木工品の如き品種に白釉を施し、更に呉須・青・緑・紫・黄等の釉を以て著畫し、頗る高雅の氣韻を有す。源右衞門の子榮五郎は後に窯を金澤に移したりしが、その作る所亦父に讓らず。世に源右衞門の粟生屋物と稱せらるゝものにして、榮五郎の作品を混同したるありといふ。思ふに磁器の製作を本色としたる能美郡中に在りて、粟生屋一家が夙に樂燒を以て嘖々たる名聲を得しもの頗る珍とすべきなり。その造る所、初代源兵衞の黒樂茶碗・布袋の香合は、小松の某氏及び源兵衞の裔孫たる中村東洸の所藏に係り、洛の樂燒に近き觀を呈するもの。二代源右衞門の作には、亦東洗の藏する舞鶴形向附ありて乾山に髣髴し、隅切角形交趾風の碟は古織部の如き韻致を有す。又石川縣商品陳列所には、黄釉にして河骨を描ける樂燒の火鉢一對あり。