かくて庄三の作品は、艷麗絢爛なる點に於いて殆ど極度に達したりといへども、風韻雅致を具備することなきの畿を冤るゝ能はず。古九谷燒の青九谷類及び吉田屋窯の製品が塗詰物と言はるゝに對するときは、庄三の作品は正に畫詰物と稱するを適當とすべし。然れども庄三が、吉田屋窯と同じく石燒を選びたるは最も剴切の措置にして、之を白磁とするときはその調和を缺きて失敗に陷るの虞あり。而して庄三の能くこゝに想到せしもの、實に彼の頭腦の明晰なるに依らずんばあらざるなり。若し夫庄三と宮本屋窯の八郎右衞門とを比較するときは、八郎右衙門の書廻しを好み自由を喜ぶに反し、庄三は間取りに苦心して節調を得るを樂しみ、八郎右衞門は精巧にして雅味を忘れず、庄三は細緻にして艷麗を宗とす。この二人が時を同じくして江沼・能美二郡に相對峙せしもの、實に加賀の窯業界に於ける最盛時とすべきなり。 若杉窯・小野窯・蓮代寺窯に關係したる諸工中、手腕の優秀なるものは、第一に貞吉を擧げざるべからず。貞吉は本多氏、陶銘には本多貞橘と書したるものあり。肥前島原の入。寳暦九年を以て生まれ、若くして京に出でゝ青木木米に隨從し、春日山窯に來りて製磁に從へりと傳ふるも、二人の關係甚だ明白ならず。而して文化八年若杉窯の創設せらるゝや、彼は夙く來りて窯元林八兵衞を輔け、文政二年閏四月五十四歳を以て沒せり。貞吉二子あり、長を清兵衞といひ、次を榮吉といふ。文政八年門人山上屋松次郎、貞吉の二子と謀り、故人の墓碑を若杉・八幡二村の間に建てたりといへば、清兵衞等父の歿後尚この地方に住せしものゝ如しといへども、今その家系を知らず。