勇次郎は肥前の人、本姓三田氏と稱せらるゝも、實は徳島の産にして武田氏なりといはる。世人赤繪勇次郎と呼びたるを以て、己も亦かく稱したりき。その若杉に來りしは文化十四年にして、貞吉の歿後工場長として活動し、精細なる赤繪を著畫して、盛觀を致さしめたるの功は沒すべからずといへども、惜しむらくは今その傳を詳かにせず。文政二年八月勇次郎が、隣村八幡村の八幡社に寄進せる石燈籠は今尚存せり。 赤繪勇次郎著畫徳利能美郡小松町酒井長平氏藏 赤繪勇次郎著畫徳利 彌右衙門は若杉村の人、文政元年貞吉の門に入りて陶業を修めしが、不幸にして貞吉その翌年に歿し、次いで天保八年若杉窯は火災に罹りたるを以て八幡村に移されき。彌右衞門乃ち自ら發奮し、林八兵衞の若杉窯の遺址に就き、新たに若杉窯を起して製磁に從へり。文久二年彌右衞門の子彌作その後を受け、明治二年肥前・京都・美濃の陶場を巡視し、歸來大に陶土の精練調和の法につきて研究する所あり。後若杉を以て氏となす。彌右衞門業に從ふこと六十餘年、常に貞吉の靈を祭る。明治十七年石川縣書記官徳久恒範その志を嘉し、若干金を與へて貞吉の碑の保存を謀らしめき。 儀兵衞は能美郡八幡村の人なり。貞吉に若杉窯に師事し、小野窯の起るや又之を助けたりき。儀兵衞は白磁製造の功勞者として記憶せらる。 北市屋平吉は北玉堂と稱す。小松の人平七の子にして、享和三年を以て生まる。幼にして繪畫を好みしが、文政四年伊勢國龜山に至りて製陶の業を學び、七年歸郷して若杉窯に入り、勇次郎に師事せり。次いで天保二年吉田屋窯に轉じ、四年自ら小松に開窯するに及び、藩侯の御用を命ぜられ、苗字帶刀を許さる。是より姓を石田といひ、明治三年五十八歳を以て歿せり。子なく、小島甚右衞門の男平藏を養ひて嗣となす。平藏は、明治時代に於ける小松陶畫界の巨匠なり。