庄三は寺井の人なり。文化十三年に生まる。初名庄七。祖父庄助は農を業とせしが、父庄三郎に至り繪事を好み、家業を棄てゝ染物上繪又は陶畫を以て糊口し、四十二歳を以て歿せり。庄三は年十一の時若杉窯に入りて畫工となる。然るに九閲月の後夙く青華磁を作り優秀の手腕を示したりしかば、窯主は彼が天禀の才あるを知り、衣食を給して赤繪勇次郎の門に入らしめき。庄三こゝに在ること六年にして、益妙腕を發揮し、次いで又粟生屋源右衞門及び山代の宮本屋理八に就き業を受く。藪六右衞門の小野窯を開くや、齋田屋伊三郎・松屋菊三郎・板屋甚三郎等諸工來り、多士濟々の觀あり。庄三亦彼等に伍して嶄然頭角を露し、その功績最も顯著なりしを以て、世人小野窯を稱するときは直に庄三を聯想するに至れり。爾後庄三は各地に遊びて陶土の探索を怠らず、天保五年羽咋郡梨谷小山に至り、西性寺住僧の請によりて窯を開き、同郡火打谷の山中なる字出雲に一種の岩土を得、之を顏料として試用せしに、黒色鮮明にして頗る美なるを知れり。これ即ち世に能登呉州といふものにして、後に陶畫界必須の材料となる。十一年越中婦負郡松山村の農甚右衞門といふもの、富山侯の命を奉じて陶窯を開き、庄三を聘して著畫を督せしむ。爲樂窯といふもの是なり。十二年庄三家に歸り專ら著畫を業とせしも、販路窘迫して家資支ふること能はず。僅かに一擔を製し得るときは直に自ら金澤に齎して顧客を求めたりしが、偶陶商倉谷屋嘉六その徒弟となりしを以て、彼に託して販路を擴張し、又一資産家の後援を得て業漸く盛なるを得たりき。庄三嘗て五國寺村字松谷の山腹に製磁に適する良土あるを思ひ、未だ試掘することなかりしが、文久三年こゝに築堤工事ありし際十村の巡檢に隨行踏査せしに果して之を得たりき。後本郡の製陶に多く之を使用す。次いで又佐野村に釉料を得たり。慶應三年庄三茗器を製して藩侯に献ぜしに、報ゆるに菅公の像を以てせられしかば、家寶として之を藏し、身を終ふるまで日々禮拜せり。庄三資性温厚にして眞摯、能くその業に勵精し、門生を薫陶すること前後三百餘人に及ぶ。是に於いて九谷の庄三の名大に著れ、後之を取りて家に名づく。明治十五年八月庄三享年六十八を以て歿し、十八年農商務省の追賞を受く。庄三一子あり、松島九平といひ、父の業を繼がず。後郷人相謀り庄三の爲に碑を建てんと欲し、撰文を藤田維正に請ひて成る。而も直に之を實現するに至らず、大正十年七月に至り文を改めて紀功碑を寺井驛停車場に建設せり。