江沼郡に在りては元祿初年古九谷窯の廢滅せしより製陶のこと全く斷絶せしにあらざるも、微々として不振の状に在りしが、文政中に至り吉田屋窯の起るものあり。天保中宮本屋窯となり、慶應中に永樂窯の開設となる。而してこは實に九谷燒の本宗にして、金澤若しくは能美郡に於ける同種の製品を普く九谷燒と稱するは、明治以後の稱呼たるに過ぎず。 吉田屋窯を開創したるは大聖寺の人吉田屋傳右衞門なり。傳右衞門は豐田氏、諱は成元、柳憲・道紀・遯庵と號し、後に通稱を石翁といへり。寶暦二年四月十五日を以て生まれ、明和七年家督を襲ぎ、酒造を業とし、遂に町年寄となりて苗字帶刀を許さる。幼より學を好み、經を早水湍水に習ひ、又洛儒皆川淇園に隨ひ、詩歌・書畫・篆刻を愛す。文政十年閏六月九日七十六歳を以て歿す。傳右衞門が初め製陶に從はんとするの念を懷きたるもの、果して如何の動機によるかを知らず。或は曰く、當時能美郡若杉の工人に粟生屋源右衞門ありしが、常に古九谷の風格を復せんとの意あり。偶平戸の平助及び八幡の儀兵衞共にこゝに在りて製陶の事に從ひしが、意氣相投じ、遂に山中温泉に浴し、傍ら九谷の遺蹟を探りて再興の方法を議したりき。一夕三人妓を聘して遊ぶ。時に傳右衞門もこの旅館に止りしが、亦妓を招かんとして彼等の爲に先んぜられしを怒り、乃ち館主を延きて之を詰る。館主謝して曰く、彼等は九谷燒を再興せんと欲するものなり。若しその計畫成るに至らば、この地方の利を得ること頗る大なるべし。望むらくは暫く彼等の興を妨ぐる勿れと。傳右衞門乃ち熟考する所あり、己も亦共にこの事業を起さんと欲し、遂に館主を介して彼等と交を結び、爲に資本を投ぜんことを約せりと。こは加賀陶磁考草の記する所にして、平助の實話に係るといはる。この談或は眞を失せんも、略之に類する事實ありしなるべく、最も早く傳右衞門の開窯のことに參畫せるもの、源右衞門なりしことは疑を容れず。但し平助・儀兵衞二人は終に關係せざりしが如し。