吉田屋窯の初めて開かれし地は九谷村なり。これ傳右衞門等が古九谷の遺址を求めて陶窯を起さんと欲したるに因り、吉田屋の文書によれば彼が初めて資を投ぜるは文政六年九月に在り。然るに十一月加賀藩は、前月以降粟生屋源右衞門が若杉を去りて九谷に赴けるを知り、その大聖寺藩領に赴きて製陶に從事するは、勢ひ加賀藩領なる若杉窯の衰微を來すの源因となるべきを以て直に之を召還し、その他行を禁ずること翌七年七月に及べり。 小松中町あわ(粟生)屋源右衞門 右之者、若杉陶器所始め候節より罷越、竈焚藥懸等見習、相應に用立候處、前月上旬より、大聖寺御領九谷與歟申所に而、陶器竈取立候に付、其方に罷越居申由承及候。彌罷越居候哉被相糺、罷越居申候得者、沙汰之限に候條、早々呼戻し、右職指構、他行可被指留候。右風押移候而者、若杉陶器方手薄相成候間、早速可被相糺候。以上。 十一月十七日(文政六年)御算用場 富田九内殿 〔加賀陶磁考草〕 ○ 小松中町粟生屋源右衞門 右之者、若杉陶器所始候節より罷越、職方手習相應に用立候處、大聖寺御領九谷與歟申處え、無斷罷越居、不屆之儀に付呼戻、右職指構、他行留御申渡置候得共、今度御差解候條、此段申渡、尤以來心得違之儀無之樣、嚴重に可申渡旨、當廿二日(七月)御紙面之趣承知いたし、則申渡候。以上。 申八月朔日(文政七年)富田九内 御算用場 〔加賀陶磁考草〕