傳右衞門乃ち七年四月を以てその工場に當つべき用地を買收し、次いで製陶の事に從へり。然るにその地山間の僻陬にして、道路瞼惡運搬の不便甚だしきのみならず、積雪暮春の候に及ぶものあるを以て、九年に至り陶窯を山代の越中谷に移し、九谷の磁石と吸坂の陶土とを探り、所謂二歩性の石燒を造る。その初竈の燒成は同年八月二十六日に在り。その製陶を傳右衞門は山代燒と記し、世人は吉田屋九谷又は新九谷といへり。而してその陶質と彩釉とは共に古九谷に比し脆弱なるを免れざりしといへども、尚且つ古九谷に次ぐの聲價を得、爾來連續經營せしが、二世を隔てたる傳右衞門安道の時に至り、天保六年業務の全部を擧げて宮本屋字右衞門に讓渡せり。 加賀の陶磁は、一般に赤色顏料を以て本位となす。然るに吉田屋窯が全然之より離脱したるは、古九谷燒の遺風に倣はんとしたると同時に、赤色顏料使用の困難を避けんとしたるものと見るを得べし。素地は石燒なるを以て、白色のもの絶無にして、茶褐を帶びたる鼠色なるを常とし、作品に柔味と雅味とを與ふといへども、この窯に使用せられたる色釉は古九谷燒のものに比して大に劣り、且つ素地の色によりてその差異を甚だしからしむ。色釉の種類には黄色・黄緑色・緑色・青色・紫色・淡青色ありて、著畫は黒色の線描の上に此等の交趾釉を施したるものとし、赤色を使用せず、所謂青九谷なるものにして、金色は甚だ稀なり。色釉の中、黄色釉は濁りて鼠色を帶び、鮮明ならざるが故に温雅の色調を呈す。然れどもかくの如きは素地の白からざるによるものにして、釉その物は即ち完全に黄色なるものなり。緑色釉は古九谷燒の青緑色釉と異にして、青味少く緑味を多しとし、且つ甚だしく中性化したるは、亦素地の影響に因る。その他青色釉は重厚にして暗く、紫色釉には多量の暗褐色を含み、淡青色釉にありても亦中性化せり。故に各色釉相互の間には強烈なる反映を生ずることなく、悉く灰色に調和を保持す。その作品の大部分は皿鉢の類にして、器面全体を塗り潰し、素地を露すことなし。圖案は、古九谷燒の交趾風の作品を模範としたるも、彼に比して劣り、且つ取材の範圍狹少にして變化に乏しく、裏面には古九谷燒の如く角福の印を描く。この印は何れも黒線の上に色釉を塗抹したるものにして、古九谷燒の作品毎に異なるものと同じからず、皆二重角形の輪廓中に簡單なる福字を收めたるものなり。