吉田屋の末期に當り、宮本屋宇右衞門といふものありて吉田屋窯を管理せしが、漸く衰頽に歸せんとしたりき。こゝに於いて宇右衞門は、窯を吉田屋より讓り受け、自から經營の任に當れり。これ實に天保六年にして、是より宮本屋窯の名を以て稱せらる。宇右衞門弘化二年六月歿して弟理右衞門後を受けしが、理右術門の安政六年三月歿するに及びてその業廢絶す。 吉田屋窯の宮本屋窯となるに及び、製品も亦一變し、吉田屋時代の石燒を廢して、專ら白磁を作りしが、その磁性温藉、白色明瑩些か青味を帶び、大に誇るに足るべきものありき。而して此等の原料は九谷及び榮谷より採りたりといへども、惜しむらくはその量豐富ならざりしを以て製産額多きを得ず、遂に飛騨磁を輸入して著畫するに至れりといふ。宮本屋窯に在りては、彩釉も亦吉田屋窯の青色系を捨て、赤色金彩の細描を主とせり。これ當時世人の赤繪を要求すること多かりしによる。宮本屋窯はその陶工の屋號によりて飯田屋窯といふことあり。 宮本屋窯の陶工飯田屋はその名を八郎右衞門といひ、世に略して八郎とも稱せらる。大聖寺の人。初め染色業の上繪師たり。彼は從來の赤繪を改良し、古九谷燒以來使用せられたる青紫黄緑の各彩を避け、自家の工夫を施したる赤色顏料を主體とし、之に金彩を加へたるものを製出せり。所謂八郎の赤繪錦襴手若しくは八郎手といふものにして、精細なる人物山水樓閣又は草花禽獸蟲魚を描き、殊に百老圖に妙を得たりき。九谷燒の畫樣細密纎巧を極めたるもの、葢し是を以て初とす。世に傳ふ、八郎右衞門嘗て敦賀の氣比ノ宮に詣で、社藏の方氏墨譜を模寫し、深く研究して舊來の圖案を一變せしめたるなりと。嘉永五年七月十四兩歿す、年四十八。