加賀陶磁考草の所説によれば、九谷燒には既に木米及び貞吉の赤繪ありしも、そは所謂交趾に模したる呉州赤繪にして、勇次郎が赤繪は伊萬里に擬したるに過ぎず。武田秀平の民山燒に至り、赤繪に金彩を施したる點に於いて、八郎右衞門に先鞭を着けたりといへども、少しく各釉を混用するを以て、畢竟勇次郎の亞流たるを免れざるのみならず、その萬暦赤呉州に模倣したるものは色彩濃厚にして黒く、澁氣ありて沈靜なるを常とするが、八郎右衞門の赤色にありては伊萬里の柹右衞門よりも濃くして厚く、光澤ありて透徹の氣を帶びたるを見る。而して八郎右衞門が、一たびこの單一なる赤色顏料を用ひて靈妙の手腕を振ふに及び、世人之を赤九谷と稱して歡迎せしかば、畫風忽ち能美・金澤地方を風靡し、嘉永・安政より明治初期に至るまで、九谷燒といへば必ず單一なる赤繪のものなりと想はしむるに至れりと。 又鑑定家の説にいふ。八郎右衞門が赤繪金襴手の特色は、緻密精巧に赤色を以てせるが上に、金彩を用ひて重複に描きたるなり。然るにかの伊萬里等の金彩にありては、單に或る局部に之を塗りて觀者を威壓するに過ぎずして、金彩を以て描畫したるものを見ず。且つ伊萬里の如きは金彩を塗るベき部分を空白となし、一時こゝに粉末を塡充して各釉を燒き上げ、然る後前の粉末を剥落せしめて之に代ふるに金彩を塗り、二たび之を燒成したるものなるも、八郎右衞門に在りてはこの迂遠なる手數を避け、赤色と金彩とを一時に燒成する簡易法を創始せり。又八郎右衞門の著畫は、模樣風のものを用ふること殆ど無く、特に間取り物の如き輪廓内に跼蹐するを欲せずして、全面に奔放の畫樣を書き廻しとす。彼が種々の彩釉を用ふることを排して單彩とし、時には金色をさへ全然省きたる理由實にこゝに存す。然るに八郎右衞門の眞髓を解し得ざる庸工にありては、單に赤色金彩なるを以て八郎風なりと誤り、間取り模樣を施し、腰模樣を加ふる等、複雜に複雜を加へてその濃艷嫌惡すべきものあるに至れりと。されども八郎右衞門にも亦異例のものなきにあらず。石川縣立工業學校所藏の鉢は、白磁堅緻にして明徹なるも稍淡黝を帶び、赤色は深厚にして寧ろ黒く光澤あるものなるが、是には腰模樣ありて青釉を混用せり。又同校の所藏に、口徑四寸高二寸五分許の急須ありて、全面を黄南京釉とし、濃鼠色にて奔馬八頭を描けり。所謂方氏墨譜に得たる圖樣なるが如し。八郎右衞門晩年この墨譜の模寫を門下の高足淺井一毫に傳へ、而して一毫は竹内吟秋と共に明治初期に八郎風の妙所を發揮せり。 飯田屋八郎右衞門著畫平鉢江沼郡大聖寺町井上慶作氏藏 飯田屋八郎右衞門著畫平鉢