江沼郡の窯業は、古九谷窯を初とし、吉田屋窯に於いても、宮本屋窯に於いても、常に創意發明に富みたりといへども、之を商品としては到底能美郡の大量なるに比すべくもあらざりき。是れ本郡の民俗專ら堅實を旨とするに因るといへども、亦一面には原磁常に缺乏して發展の餘地なかりしにも由る。是を以て安政・文久中一時頗る沈滯の状を呈せしが、遂に藩末掉尾の快擧は九谷本窯に於いて試みられたりき。 慶應三年大聖寺藩は産業を振興して時世の進運に伴ひ、因りて以て國富を計らんと欲し、産物役所を建設したりしが、その第一事業は最も遠き歴史を有し熟練せる職工を有する窯業の再興に在りて、山代に二個の製陶所を起し、藩吏藤懸八十城・村民三藤文次郎をして之を管理せしめたりき。而して藩が之に名づくるに九谷本窯を以てせし所以は、古九谷の最盛期を現出せんとするの希望に出でたるなり。是に於いて陶工永樂和全を京師より聘し、素地を精良ならしめ、形状と著畫とに新工夫を凝らしゝかば、その製する酒器・菓子器・茗器・碟鉢等大に世人の歡迎する所となり、優に加賀陶磁の牛耳を執るに至れり。俗に之を永樂窯とも、加賀永樂とも稱す。然るにその後久しからずして藩政の改革あり、資銀補給の途忽ち杜絶したるを以て、製陶の業は前の管理者等繼承したるに拘らず維持困難に陷り、明治四年遂に之を塚谷淺・大藏壽樂に讓與せり。