永樂窯の工長たりし永樂和全は京都世襲の陶家なり。その父保全は木米と時を同じくし、保全の紫釉は木米の黄釉と比肩して磁界の偉觀と稱せられ、而して和全は保全と共に永樂系中の双璧と言はれし人なり。京都に於ける永樂系は元來製磁に精しく、石燒と樂燒との製品極めて少かりしが故に、九谷本窯が白磁の完成を期して和全を聘したるは實に適當の措置なりしなり。和全は文政六年に生まるといひ、その山代に在りしは四十五歳より後五年間に亙りしが、居常土民と交るを好まず、時ありて金澤に赴きて點茶家を訪ひ、最も原呉山と親善にして書信を往復せり。此等手簡中に耳聾和全と記したるものあるは、之を聾木米に對して奇觀とすべし。和全又門弟を養成すること尠く、山代の大藏壽樂・木崎萬里、能美郡今江の油屋長作等、僅かに二三を數ふるのみにして、自ら營々として製作に從ひしものゝ如し。明治中山中町矢口永壽堂の職長に瀧口加全ありて、和全の門弟たりといへども、彼は和全が歸洛の後に於いて從遊したりしなり。 九谷本窯の原土は、初め之を江沼郡杉水に得たるも、産額多量ならざりしを以て、京都及び能美の良土を使用することゝしたりしに、白磁の質精緻堅硬にして少しく青味を含み、光耀の中に潤色を見、その良好なること尾張・肥前の産を凌駕せり。作品の形状皆整正にして氣韻を備ふるは、和全が最も轆轤を操るに巧妙なりしによる。彩釉に就いては、元來永樂系に南京赤の秘訣ありしを以て、和全も亦之を用ひて金襴手を製出したりしが、その色彩濃厚なるも黒味と澁味となく、温穆にして光澤あるも透徹の風なきことを得て、恐らくは我が國の陶磁器に用ひられたる赤色中最も優等なるものなるべしと言はる。而して之に施せる金彩の深厚なるは、消粉箔を多量に使用せるものにして、雲鶴・唐草等を針書にて截り殘し金彩中に赤地を現出したる手腕に至りては、餘工に決して見る能はざる所なり。即ちかの八郎右衞門・庄三の金襴手の如きは、單に金彩を施したるのみにして針書にはあらざるに、獨和全によりて精巧優秀なる針書を得たるもの、實に彼の特徴として賞讃する價値ある所以なり。和全は又青華をも製したりしが、その作品には外面を金襴手にし内部を青華著畫としたるものあり。又内部の底に簡素なる鳥獸草花を青華にし、その上部に色釉を以て著畫せるものあり。色釉は黄・青緑・青・紫等にして、古九谷窯の丹礬も亦使用せられき。而して和全の山代に於いて作れるものには、於九谷永樂造又は大日本於九谷永樂造などゝ記せらる。或は河濱支流・永樂和全造之とあるものありと傳ふれども、實際之を見ることあらず。又永樂於大聖寺造之とあるは、恐らくは僞物なるべしといはれ、その金襴手の精巧なるものには無銘のもの多し。要するに和全の加賀に在りて作りし所は、清雅と眞摯とを以て要訣とし、山水人物等の複雜なる描畫を避けたるなり。傳へて曰く、和全の聘せられて將に大聖寺に來らんとするや、京師の知友警めて曰く、加賀の陶磁に山水人物を描くものは、古九谷以來既に研究せられて餘蘊あることなし。卿それ別に啓發誘掖するに勉めよと。和全その説に服したりしを以て此くの如き方針を執りしなりと。