加賀の陶磁に關する傳統と沿革の紛雜すること、上來既に述べたる如くなるも、尚樂燒にありては能美郡に粟生屋物のありたる外、金澤に大樋窯及びその支系に屬するものあり。大樋燒は遠く古九谷窯の中期に起り、連綿として今日に及びたるものにして、寛文六年加賀侯前田綱紀が京都の茶人千宗室を招きし時、陶工長左衞門之に從ひて下りしが、長左衞門は大樋町に陶窯を設け、宗室の考按に基づきて諸種茗器の製造に從事したるを初とすといふ。而してその作品は、一面藩の需要に應じて贈遺の目的に供せられ、一面には藩臣富豪の嗜好を充すが爲に使用せられたりしなり。 初代大樋長左衞門作香爐金澤市山川庄太郎氏藏 初代大樋長左衞門作香爐 大樋燒は初め河北郡春日山・法光寺及び宗室の秘示せる同郡山上村の粘土、越中の白土等を混用し、後には能美郡又は京都の土をも採り、その素地を作るには手捏物あり轆轤物ありて、箆目・削り目・布目を應用し、火力によりて燒占め、施釉せざるあり又施釉したるもありて、あらゆる技巧を發揮したりといへども、土性の軟弱なる恨は到底之を免るゝ能はざるなり。 大樋燒の釉藥は唐土・白玉・日の岡を調合したるものにして、色彩を現すには紅殼・緑青等を混入す。この窯の創始時代に在りては、土質緻密にして釉色平滑なること飴の如く、赤黄色を帶びて光輝を發せしが故に、大樋の飴紬と稱せられて世の賞讃する所となれり。後に至りては黒樂なるあり。青味を含む飴釉あり。白釉にて仕上げ、萌黄色の淺く鮮かなる模樣を施せるあり。飴色にて仕上げ、渦彫の中に白釉にて象眼せる如きものすら生じたりき。又古大樋にして、青白赭紫黄の各釉を用ひ、菊・梅等を模樣風に現したるものなきにあらずといへども、之を俳畫風の簡朴なるものとせるは五代勘兵衞を以て初とし、系外諸工にも之に模するものあり。大樋燒の製品は、初め茶碗・水指等點茶に要する一切の雅品のみなりしといへども、後には火鉢・火入・庖厨用雜具・玩具等をも創製せり。