大樋燒の宗家たる長左衞門は、舊と河内の人なりとせらる。明暦中京都二條瓦町に住し、樂の一入齋吉兵衞に師事せしが、寛文六年前田綱紀の爲に徴されて金澤に來り、大樋町に住せしこと前に言へるが如く、是より大樋を以て家に名づけ、正徳二年正月二十一日歿す。凡そ大樋燒は、代々圏内に大樋の二字ある印を押捺すといへども、初代長左衞門の作には捺印あるものを見ずといへり。二代長左衞門、前田吉徳・宗辰二侯の命を奉じて製陶し、延享四年八月二十三日歿す。三代勘兵衞は重煕・重靖・重教・治脩の時に當り、享和二年三月二十六日歿し、四代勘兵衞は文政六年六月高六尺・胴廻六尺五寸の陶製獅子を齊泰に上り、翌年隱棲して土庵と號し、天保十年十月二十七日歿す。而して之に次ぐものは名工と稱せられたる五代勘兵衞なり。 五代大樋勘兵衞は、文政七年十月家を嗣ぎ、八年三月二人扶持を受け、十一年正月藩より河北郡山上村字清水に製陶の用地を貸與せらる。勘兵衞この年以降、藩侯の在江戸と在國とに拘らず、毎年元日に使用する大福(オホブク)茶碗を献納す。大幅茶碗は口徑三寸八分・高さ二寸八分、白釉にして外側に海老を附したる注連飾の畫を描きたるもの、及び黒釉にして寶珠三個を刻し金箔を塡したるもの、各一個を一組とし、侯の在江戸の年には十一月十九日、在國の時には十二月十九日を以て献納し、その上箱には大樋長左衞門の名を書せり。葢し彼の名は勘兵衞なりといへども、世人皆初祖の名によりて長左衞門と呼びしが故なるべし。勘兵衞弘化四年三月歩士組列の待遇を受け、祿參拾俵を賜はる。その陶器御用を命ぜられしこと故の如く、嘉永三年三月二十一日將軍徳川家慶が江戸本郷の藩邸に臨みしとき、召されて天目茶碗を燒けり。勘兵衞安政三年二月十一日歿し、子朔太郎亦此の年六月二十五日歿せしを以て、弟道忠七世の統を襲ぐ。道忠廢藩の後一時業を罷めしが、明治十七年十二月再び春日町に開窯し、三十二年歿するに及びてその統斷絶せり。