初代大樋長左衞門の門下に五平といふものあり。金澤の近郊淺野村に開窯す。その製品は黒樂に屬し、強烈なる火力を用ひて燒成し、陶性堅緻にして釉に滑澤あり。温雅なる京燒に類す。但し淺野燒に於ける特徴は、黒樂中に大樋の特技たる飴釉を二三ヶ所微かに現したる點に存す。傳へていふ、五平性謹厚なりしを以て、師の用ひたる飴釉を全面に施すことを避けたるなりと。その陶印あるものには楕圓中にあさの若しくは淺野の文字あるを用ふ。 五代大樋勘兵衞の末年に至り、彼が養成せる徒弟中卓越したる技量を有するものに加登屋政吉・加登屋吉右衞門・安江屋五十八あり。皆獨立して春日山の麓に陶窯を設け、廚房の日用品を製して各地に輸出せしが、天保・嘉永の頃は尚宗家と協調連絡するを忘れざりき。然るに安政以降分支十餘工の起るありて、或は共同窯により或は自家窯によりて製造するに及び、その間に紛議絶ゆることなかりしかば、藩は爲に法規を設けて陶窯相互の距離一町以上たるべきことを令するに至れり。 加登屋政吉は、五代大樋勘兵衞の股肱にして、五柳軒と號し、安政の頃扶持を給せられて、藩の細工所に勤務せり。五柳軒の雅號は、藩侯前田齊泰の賜ふ所なりと傳ふる者あれども確證なし。二代政吉・三代伊助は明治の初年に當り、伊助は河村氏を冐したりしが、後家業振はずして廢せり。 加登屋吉右衞門は政吉の支家にして、又五代勘兵衞に學び卓越の手腕を有せり。吉右衞門の子を長壽といふ。明治の後加藤氏を冐し、原土を河北郡法光寺・山上村・談議所村及び能美郡小野村に採りて、大にその特色を發揮せり。 安江屋五十八も亦五代勘兵衞の弟子なり。五十八は、文政の末年春日山窯に從業せしより陶歴最も久しかりしを以て、天保・嘉永の系外諸工中に於いて大に尊重せられき。二代太兵衞その後を受け、明治に入りて安田氏を冐せり。