山本與興は國老村井氏の醫師にして、餘技として樂燒を作りし人なり。與興の製品は多く抹茶々碗にして、黒釉と赤釉と二種あり。彼の樂燒に於ける傳統は未だ明らかならざるも、常に道入の技術を愛し、その一品を得る毎に必ず之を模造せり。故に作中特に巧妙にして陶印なきものは、世人誤りて道入なりとすることあり。葢し與興が村井氏に仕へたるは、又兵衞長穹の末年か又は豐後守長世の代にあるべく、長世の時寛政十一年の分限帳に『九人扶持、四十七、山本與興美知』とあるが故に、その生年は寶暦三年にあること明らかなるのみならず、文化十四年に歿せりといへば、享年六十五なりしことも亦知り得べし。與興又藩侯前田治脩及び齊廣の命によりて茶器を進献せしことあり。與興に子なく、前田土佐守の醫師石浦桂庵の弟宗悦を養ひて家を襲がしむ。宗悦後に又與興と改めしが、製陶・醫術共に庸劣にして、落魄の極文政十二年養父の十三回忌辰に當り自殺せり。 山本與興の後、金澤にありて好みて樂燒を製せしものに尾山屋伊八あり。その作遙かに與興に及ばすといへども、亦見るべきなきにあらず。後又小原伊平といふものあり。芳二と號し、樂燒を作りしも、技量更に伊八より下れり。又原呉山あり、通稱與三兵衞、文久以降卯辰山麓鶯谷の傳燈院附近に樂燒を作れり。明治三十年歿す、享年七十一。 加賀が陶磁工業國たりし如き觀あるに對し、能登に於いては殆ど之が勃興を見ることなかりき。たゞその位置相隣れるを以て、間々種子の遠く散布したることなきにあらずといへども、能く發育を遂げしもの一もこれあるを見ず。